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稲生氏
七 曜
(桓武平氏三浦氏流/藤原式家流?)


 尾張国発祥の稲生氏で、『寛政重修諸家譜』にはもと藤原氏式家流平賀氏とし、光定が尾張国春日井郡稲生に住んで稲生氏に改めたのが始まりと記されている。
 稲生光正のとき、徳川家康に仕えて戦功を挙げ、家康の関東入国後、武蔵国のうちに采地五百石を与えられた。その子正信、正盛と禄を重ねて千五百石の旗本となった。また、正信の二男から始まる庶流家も、のちに千五百石となって宗家と並んだ。家紋はいずれも「七曜」と「三本骨の扇」を用いた。
 ところが、『尾張国諸家系譜』の「稲生氏」をみると、桓武平氏々族に分類されているのである。同書に紹介された稲生氏系図は、桓武平氏良文流の三浦氏からの分かれとなっている。すなわち、源頼朝の旗揚げに最初から尽くした三浦大介義明の孫市川四郎義胤を祖としているのである。
 同系図によれば、義明の長男の義宗は杉本太郎を称し、多くの男子があった。嫡男の義盛は和田小太郎を称した。二男義茂は高井氏、三男宗実は由井氏の祖となり、四男が義胤で市川氏を称した。義胤の二男胤定の曾孫和田九郎重村が、稲生を称した。家紋から見る限り、三浦氏流和田氏の後裔とした方がうなづけるのではないだろうか。
 以後、戦国時代に至るまで代々稲生に住したようで、嫡流の基重は蒲生氏郷に仕えて一万石を領したことが系図にみえる。
 重成の子重勝を祖とする庶流稲生氏は、光正の代に至って、初めて徳川家康に仕えて戦功を挙げ、徳川旗本家に列した。以後、光正の流れは徳川旗本家として続いている。また、重成の流れからは、福島正則に仕えた者、尾張徳川義直に仕えた者、松平氏に仕えた者などが系図から知れる。
 稲生氏は、近世において、大名・大身旗本になる者こそ出なかったものの、武家としてそれなりに時代を生き抜いたようである。 



■参考略系図
 
  


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