河村(茂庭)氏
葦輪に桐
(秀郷流波多野氏族)
   
 河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷である。藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。秀高は父から同国足柄郡上河村郷などの所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称した。本宗の波多野氏は源氏に従っていたが、秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、本貫地を失い大庭景義の計らいで斬罪を免れた。

●伊達氏に仕える

 南北朝期に宮方となった河村氏は、室町時代に雌伏を余儀無くされたが、その間に石見・三河・甲斐・常陸などに河村氏が分流した。これらの河村氏はそれぞれ戦国大名の配下にはいり、後北条氏の家臣となった相模の河村氏、伊達氏に降った茂庭の河村氏、南部氏に従った大巻の河村氏などの動向が知られている。
 茂庭の河村氏は政秀の代に茂庭と改め、大永年中(1528〜31)に伊達氏に属し所々の戦に加わっている。政秀の嫡子が定直、次男義秀ともに伊達氏に仕えた。
 天正十七年(1589)六月、定直は田村郡門沢城を大町三河・宮内因幡・中島右衛門等と守り、磐城・常陸の大軍を迎え撃ち討死にをした。嫡子定元は幼少であったため、弟の義秀が陣代となり豊臣秀吉の起こした「朝鮮の役」に出陣している。
 定元は慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」に連動して起きた白石御陣に出陣し、鈴木七右衛門重信と先登を争う活躍をみせた。戦後、定元の行動は軍令違反とされたが、少年のことでもあって許された。しかし、伊達氏家中における座席を下される処分を受けてしまった。慶長十九年の「大坂冬の陣」、翌二十年(元和元年)の「夏の陣」に参陣して使番を勤めた。定元・義秀の子孫ともに、仙台伊達藩の家臣として後世に家名を伝えることができた。

●河村氏の家紋─考察

■参考略系図