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大谷氏
対い蝶*
(在原氏後裔?)
*違い鷹の羽とするものもある。


 大谷氏の祖については諸説があり、たとえば桓武平氏平貞盛の後裔で豊後の出身とするもの、高階氏の分かれという説もある。しかし、一般的には在原氏説が有力である。すなわち、在原行平を遠祖とし、行康のとき近江国の坂田郡司となり、以後、その子孫が近江に繁栄することになった。そして行康の六代の孫行綱は、朝妻に住んで朝妻氏を称し、その子行吉ははじめ朝妻十郎としていたが、のちに大谷十郎を名乗ったという。これが大谷氏のはじまりと伝える。
 吉房は「大谷氏系図」によれば、六角義賢に仕えたといわれ、その子が吉継で、吉隆と記されることが多い。吉継がいつから秀吉に仕えるようになったかは不明だが、永禄十一年(1568)の織田信長による六角氏攻めばどが一つの契機になったと考えられる。吉継は仮名を紀之介といい、はじめは秀吉の小姓として仕え、天正十三年にはすでに五万石を与えられ、越前敦賀城主となり大名に列した。
 石田三成らと各地の検地を行うなど、軍事面より内政面に堪能であった。関ヶ原の合戦で西軍に属し、敗死した。子の吉治(吉胤とも)は、戦場から無事脱出したが、大坂城に入り、大坂夏の陣で討死し、大谷氏は断絶した。

節義に殉じた武将-大谷吉継

 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦で、徳川家康を大将とする東軍と、豊臣秀頼をたて実質上石田三成が大将となった西軍とが戦ったとき、大谷吉継は初めが家康に従って会津征伐に加わって出陣した。しかし、途中佐和山の石田三成にとどめられ、挙兵の計画を知らされた。それを聞いた吉継は、その無謀な計画を思い止まらせようしたが、三成の決意は固く、止むを得ず西軍に加担して戦い、敗死したのであった。
 東西両陣営とも、利害打算・保身から身の振り方に迷って、戦意に欠ける武将が多かったなかで、敗れた西軍でもっとも天晴な戦をしたのは、大谷吉継と戸田重政であったと評判されたほど勇敢に戦った。吉継は自分の死に場所を求めていたのではないかと推測される。初めから負け戦と分かっていた三成側にあえて加担を決意したとき、吉継は死を覚悟したものと思われる。それは、吉継が若いころから患っていた「ライ病」の進行が、その当時もう絶望的な重態だったことも影響したに違いない。
 大谷吉継が難病に取りつかれたのは、二十代の半ばごろではないかと見られている。その症状が進行していくなかで、秀吉に目を掛けられ、ほとんど同じ頃に秀吉に仕えた同郷の石田三成からも救けられて、豊臣政権のなかで次第に地位を得た。そして、秀吉政権の中枢の奉行にも取り立てられ、朝鮮の役に際しては、渡海軍の軍奉行を命じられた。
 このように昇進していくなかで、吉継は自分の症状の進行と戦い、精神的にも不安や動揺と戦ったことであろう。そして、このような病躯では十分な奉公もできないからと、たびたび秀吉に辞任を願い出たが秀吉からは許されず、かえって励まされ、吉継はその温情に深い恩義を感じてきた。
 関ヶ原の陣に際して、三成から誘われて与する決心をしたのも、秀吉亡きあとの豊臣家をもりたてねばならぬという、石田三成の気持ちに同調したからでありった。難病を背負った自分に対する秀吉への恩義と、自分に常に協力してくれた三成への友情、それが吉継の心を西軍に加担させた力であったと思われる。
 関ヶ原での吉継の戦いぶりはものすごかった。宇喜多勢を主力に合戦当初は東軍を押しまくった。しかし、小早川秀秋軍が裏切り大谷軍に襲いかかった。しかし、これに動じることなく、十倍もある小早川軍を一度は押し返した。ところが、脇坂・朽木・小川氏らも裏切るにおよんで、ついに大谷軍は壊滅し、吉継は自害して果てた。
 大谷吉継の生涯は業病と戦いながら、最後は恩義と友情に節を遠し、見事な完結を遂げたと思いたい。


■参考略系図
・吉房−吉継−吉治とする説もある。


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