大崎氏は清和源氏足利氏流で、斯波高経の弟・家兼を祖とする。南北朝初期に置ける奥州北朝方の四探題として、吉良・畠山・石塔・斯波(大崎)がいて、その活躍が歴史に見えるが、この四氏はいずれも足利氏の分族である。 奥州探題として南北朝の頃より、戦国時代に至るまで奥州の地で威勢を振るった。大崎氏からは最上氏をはじめ、高清水・名生.内崎・百々・古川・新井田・一迫・湧谷などの諸氏が支族として分立した。 古川氏は、奥州斯波氏大崎探題最後の栄光を担った七代教兼の子某を祖とすると伝える。古川氏の世系は不詳なところが多く、必ずしも明確ではない。 大崎教兼のあと、大崎氏は当主が相次いで早世し、探題の権勢が大いに傾いていった。十一代を嗣いだ義直の頃になると、伊達稙宗が陸奥国守護職に任じられ、大崎氏の探題職の権威は完全に失墜し、名目的であった権威さえも否定されてしまった。大永三年(1523)のことであった。これによって、大崎氏は一地方大名と化すのである。これに伴って氏家・古川・高清水らの一族・重臣が反乱した。 これは、同年に新井田頼遠の反乱が起き、一時は小康状態を保ったが、同五年(1536)再燃し、氏家・古川・高清水氏らが荷担したのである。この反乱は、古川持熈を大将に千余騎が反義直派として古川城に籠城した。持熈自身も持恵(嫡子か?)とともに篭城。これに対して、義直は渋谷党を中心に五百騎に過ぎなかったという。伊達稙宗を頼った義直に稙宗は三千騎を派遣し、古川城を攻め、岩出沢城を包囲して反乱を鎮圧した。この戦いで古川一族の殆どが討ち死にした。 この結果、稙宗はその軍事力を背景に義宣の入嗣を強要し、高兼の女に娶わせ、家督を譲らせている。結果として、大崎家中は義宣を中心とする親伊達派と義直を中心とする反伊達派に分裂することになる。そしてのちに、家臣を二分する戦いが起こることとなる。 反乱軍鎮圧のあと、古川持熈の孫と思われる忠隆が、持熈の後任として古川城に配された。忠隆は大崎義直、義隆の二代に仕えて一門の重臣となる。天正十六年(1588)の大崎合戦の折には師山城に籠城し、活躍したことが知られている。奥州仕置で主家大崎氏は没落し、その後、同十九年(1591)の大崎一揆の際には物頭衆として古川城に籠ったが、伊達政宗の征伐にあい古川城は落城。忠隆は雑兵に紛れて落ち延びた。 その後の忠隆の消息は伝わっていない。 ■参考略系図 |