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大熊氏
●丸に籠目/丸に桔梗
●清和源氏頼政流太田氏族  


 大熊氏は以仁王を擁して、平家打倒の兵を挙げ敗れた源三位頼政の後裔といわれる。すなわち、清和源氏ということになる。とはいえ、平維茂の後裔城氏の末と称して、桓武平氏を唱えたこともあったようだ。
 長禄三年(1447)12月、太田資徳は足利政知の関東下向に父と伺候、上杉持朝に預けられた。そして、持朝から信濃国高井郡大熊を宛行われ、地名をとって大熊と改名、名乗りも伊賀守朝徳と改めた。系図をみれば、朝徳の父は太田資清とあり、兄資長は太田道灌となっている。しかし、太田氏は資清の以前から上杉氏の執事職を務めており、資清の代にはじめて関東に下向したというのはうなずけない。つまるところ、大熊氏は関東で名将の誉れ高い太田氏の一族を仮冒したものであろう。
 大熊氏が越後において史上に現れてくるのは室町時代後半、戦国時代の初めである。家伝によれば、朝徳が子の朝忠、孫の朝綱とともに越後にある関東管領上杉氏の所領を管理するために越後に初めて下向した。やがて、越後守護上杉房定・房能・定実の被官となり、持ち前の経理の才を発揮して、上杉氏の重臣に列したものと考えられる。

越後への土着

 永正元年(1504)、上杉房能と長尾能景は管領上杉顕定を援けて、関東に出陣し、上杉朝興が籠る河越城を攻めた。朝忠はこの戦いに参陣して戦死した。跡は政秀(朝綱改め)が継ぎ、父と同様に上杉氏の所領管理の任にあたった。しかし、時代は戦国期であり、油断をすれば越後の豪族たちに所領を奪われることにもなりかねない。政秀は越後の守護代長尾氏に支援と協力を仰いだようである。
 永正三年、長尾能景は越中にで一向一揆と戦って戦死、嫡子為景が守護代職を継いだ。翌四年、為景は守護代の勢力を削減しようとする守護上杉房能に反発し、養子の上杉定実を擁してクーデターを敢行し、房能を松之山で自刃に追い込んだ。
 これに激怒した房能の兄で関東管領の上杉顕定は、永正六年、二万数千(一説に八千)という大軍を率いて越後に侵攻、たちまち為景と定実を越中に追放した。しかし、翌年ただちに軍を立て直した為景は反攻を開始すると、寺泊・椎谷の戦いで顕定軍を撃破、関東に逃れようとする顕定を追撃して討ち取った。この一連の戦いにおいて、上杉被官である大熊氏は顕定方として行動している。
 二度にわたる下剋上によって、越後は定実・為景政権が成立した。しかし、定実は単なる「お飾り」に過ぎず、実権は為景が握っていた。かくして、越後随一の実力者となった為景は、永正十六年(1519)より、越中一向一揆を征伐するため越中出兵に乗り出した。越後の国人領主たちは、この越中進攻に駆り出され、多大な負担を強いられた。その結果、国人らのなかには経済的逼迫に陥る者もあらわれ、土地を担保として借銭する者も出た。このとき、大熊政秀は、竹俣清綱や毛利広春らの求めに応じて、銭を融通したことが知られている。このような、為景の政治は次第に国人領主たちの間に不満を醸成していった。
 享禄三年(1530)、上杉一族である上条定憲が為景打倒の兵をあげた。この「上条の乱」に際して、上杉被官で箕冠城主であった大熊政秀は上条方に与した。為景は鎮圧に手こずったが、永正十七年正月、定実の有力支持者の一人であった宇佐美房忠の居城を落したことでこの乱にようやく終止符がうたれた。しかし、その後も上条定憲は機を捉えては為景に対立を続けた。天文二年(1533)の挙兵には、それまで為景に味方していた揚北の国人らが傍観をきめこみ、長尾一族の上田長尾房長が上条方に加担したため上条方が優勢となっていった。
 越後国内で両軍の戦いが繰り返されたが、次第に為景は守勢に追い込まれていった。天文五年、ついに四面楚歌に陥った為景は家督を長子の晴景に譲り隠退した。

謙信に仕える

 越後戦乱の時代にあって、大熊氏は守護上杉氏、守護代長尾氏の間にあって双方に付いたり、離れたり、さらには中立を保ちながら、次第に長尾氏から重臣として登用されていったようである。
 為景没後、長尾氏の当主となった晴景は諸将の支持を得ることができず、末弟の景虎が長尾氏の家督を継承した。この景虎の家督相続に際して、政秀はその擁立派として行動したようだ。そして、天文十七年(1548)、永年の功により頸城郡板倉郷に三千貫の所領を宛てがわれた。それをきっかけとして嫡男の朝秀は箕冠城の拡張工事に着手、翌年には新たな箕冠城が完成している。
 天正十九年、越後守護上杉定実が死没、定実には男子がなかったこともあって、長尾景虎が実質的に越後国主になった。国主となった景虎は越後国内の反抗分子を平定し、越後統一に成功した。この間、大熊朝秀は景虎に仕えて、公銭方、段銭方としてその才を発揮、長尾譜代に準じて景虎の重臣となった。大熊朝秀は武勇もさることながら、理才のある人物であった。
 景虎が越後の国主として君臨したころ、隣国の信濃は甲斐の武田信玄の侵攻を受けて、守護家小笠原氏が没落、ついで北信の雄村上義清も劣勢に陥っていた。そして、天文二十二年(1553)、本城である葛尾城を武田軍に攻略された義清は景虎に救援を求めてきた。かくして、景虎と信玄の間に第一回の川中島の合戦が展開された。この戦いに大熊政秀が出陣、戦死したと伝えられている。同年十月、景虎は初めて上洛、朝秀は春日山城の留守居を命じられた。
 翌年、上野家成と下平修理亮の間に領地争いが起ると、朝秀はこの領地問題の解決に本庄実仍、直江実綱らとともに尽力した。しかし、この領地問題はのちに再燃、その背景には守護上杉家の旧家臣団たちと景虎擁立派の新興家臣団との対立があり、旧上杉家家臣で能吏の朝秀は、ともすれば武骨者の多い長尾氏家中において白眼視されがちであった。越後国内を統一したとはいえ、家臣団との対立にほとほと手を焼いた景虎は、弘治二年(1556)六月、突如として出家隠退を声明した。
 この事件は、長尾氏系家臣団が中心となって景虎に誓紙を出すなどして、一件落着した。しかし、朝秀は長尾主流派に対する自分の立場の不利を思い、密かに甲斐の武田信玄に通じたのである。本庄実仍、庄田定資らは大熊朝秀の拠る箕冠城攻撃を企図し、危険を察知した朝秀は城を出奔した。このとき、鳥坂城主の城織部正資も朝秀と行動をともにしている。越中に奔った朝秀は、兵を集め府中に攻め寄せようとしたが、小不知、駒返しの戦いで敗北、海、陸を経て西上野に逃れた。

武田家に転じる

 翌年、武田信玄が西上野に侵攻してくると、馬場信春を通じて信玄に対面、武田家に仕えることになった朝秀は、飯富三郎兵衛昌景に預けられた。一城の主から、一同心の身に転落したのであった。とはいえ、朝秀は信玄に忠勤を励み、永禄四年(1561)の第四回川中島の合戦に飯富昌景の配下として出陣、旧主上杉謙信の軍と戦った。
 永禄九年(1566)九月、山県(飯富改め)昌景の組下に属して、長野業盛が守る上州箕輪城攻撃に加わった。箕輪城は難攻不落を誇り、業盛の父業政のころより武田氏の再々の攻撃をよく防いでいた。朝秀は箕輪城を単身よじ登ると、城兵十数人を斬り倒し、内側から大手口を開けて武田軍を城内に導いた。城将の業盛はこのとき二十五歳の青年武将で、その護衛役は、後世、新陰流の祖と仰がれた上泉伊勢守信綱であった。
 城へ一番乗りした朝秀は業盛を本丸へ追い詰めた。しかし、上泉信綱に阻まれて釘付けに成り、一騎打ちを演じた。朝秀も相当な剣の遣い手だったようで、信綱との戦いにかすり疵ひとつ受けなかったという。この間、朝秀に加勢する山県勢の攻撃はすさまじく、さすがの信綱も支えきれず、血路を開いて城を脱出した。その間に城将の業盛は自刃し、箕輪城は陥落した。
 箕輪城攻撃に示した朝秀の武勲を讃えた信玄は、旗本の足軽大将に抜擢して、騎馬三十騎、足軽七十五人を預け、備前守を名乗ることを許した。そして、洗場曲尾の根小屋の城将に任じたのである。その後、朝秀は小幡山城守虎盛の娘を妻に迎え、武田家中に地歩を築いていったのである。
 西上野を攻略した信玄は駿河攻めを企図し、今川氏と縁故関係にある嫡男義信と対立、ついに幽閉、自刃に追い込んだ。そうして、永禄十年、家中の動揺をおさめるため起請文を徴して、信濃佐久郡の生島足島神社におさめた。起請文を提出した将士は二百三十七名におよび、大熊朝秀の嫡男新左衛門尉長秀の起請文も現存している。かくして、永禄十一年の暮、馬場信春・山県昌景らを先鋒として駿河に攻め込んだ武田軍は、駿府の今川氏真を掛川城に奔らせる勝利をえた。翌十二年、朝秀は駿河に出陣、田中城・花澤城攻めに参加、小田原北条氏の駿河出兵に備えている。
 駿河を支配下におさめた信玄は、元亀二年(1571)、遠江攻めを開始した。信玄は大井川河口に小山城を築き、その城将に朝秀を任じると、遠江侵攻の後詰めの役を担わせた。ここに、朝秀は越後出奔以来、十五年を経て一城の将に返り咲いたのであった。翌元亀三年、信玄は上洛の軍を催し、朝秀は甲斐古府中の留守居を命じられた。武田軍は破竹の勢いで進撃、三河三方ケ原の合戦において徳川家康を一蹴した。しかし、にわかに病の重くなった信玄は上洛を断念、甲斐に帰る途中の信州駒場で不帰の人となった。


■大熊氏の家紋


大熊氏の家紋は「丸に籠目」である。はじめは「開き扇に大文字」を幕紋とし、旗指物に印した紋は太田氏ゆかりの「丸の内に桔梗」であった。上杉氏を去って武田氏に仕え、山県(飯富)氏に属した朝秀は、山県氏の家紋が「桔梗」であることから、旗紋を「大文字」とした。さらに、幕紋を魔除けの意味を持つ「丸に籠目」に改めたと伝えている。〔大熊備前守より〕


武田氏の衰退

 信玄後の武田氏は勝頼が家督を継ぎ、覇業の継承に努めた。勝頼もひとかどの武将ではあったが、その器量は信玄には及ばなかった。天正三年(1575)五月、三河設楽ケ原で勝頼率いる武田軍と織田・徳川連合軍とが激突、武田軍は完敗を喫した。この長篠の合戦に出陣した大熊朝秀は、戦死した内藤昌豊の首級を持ち帰ったと伝えられるが、府中で留守居の任にあたっていたようだ。また、新左衛門尉長秀は遠江小山城の守備に任じて、大熊父子は合戦には参加していなかった。
 合戦に敗れた勝頼は頽勢の挽回に努めるが、その前途は多難なものがった。天正六年(1578)、上杉謙信が病死したのち、上杉氏は御館の乱が起り越後は内乱状態となった。勝頼ははじめ景虎方を支援したが、途中より景勝と交渉を持つようになり朝秀がその任にあたった。このころ、朝秀に代わって長秀が勝頼側近として活躍することが多くなっている。
 天正九年、木曾義昌が信長に通じて謀叛を起すと、勝頼は討伐軍を発した。その軍中に大熊朝秀も参加したが、武田軍は木曾軍の計略にはまって大敗、朝秀は行方不明となってしまった。翌十年、徳川家康は遠江に出兵、高天神城、小山城を攻撃した。勝頼は後詰めの兵を出せず、高天神城が落城、小山城が攻撃にさらされた。城将の長秀は抗戦を諦め、城内の食糧を将兵に分配すると古府中に逃れ去った。間もなく、織田軍の甲斐侵攻が始まると、勝頼とともに小山田信茂の岩殿城をめざして府中を逃れた。長秀は甘利某とともに岩殿城に先発したが、信茂はすでに勝頼を見限っており、窮した長秀らは行方知れずとなってしまった。かくして、行き先を失った勝頼一行は、天目山に追い詰められ自刃、武田氏は滅亡した。
 武田氏滅亡後、織田氏の武田残党狩りは峻烈を極めた。そして、行方不明だった朝秀は伊奈において切られたという。一方、行方知れずとなった長秀は、武蔵に逃れて逼塞していたようで、本能寺の変で信長が死去したのち上州の一族を頼った。そして、天正十五年、武士を捨て出家、父朝秀および一族郎党の菩提を弔って生涯を終えたと伝えられる。

その後の大熊氏

 朝秀の長男常光(尊秀)は早くから信玄麾下の真田氏に仕えていたようで、天正初期の信綱・昌幸が出した安堵状に大熊氏の名が見える。二男の勘右衛門も兄常光とともに、真田氏に属して活躍した。三男の長秀は先述の通り、永禄年間に起請文を信玄に提出している。
 関ヶ原の合戦(1600)で敗れた昌幸が紀州九度山に流されたのち、嫡子の信之が真田家の当主となり、重臣級の武士に知行地を安堵した。そのとき、洗場曲尾の根小屋城主であった常光は、その地に百五十貫に近い本領を与えられている。ほかに、小県郡の内十ケ所ほどの知行地を与えられ、統べて三百十七貫余の知行を得た。この貫高は真田氏家中でも筆頭に近いものであり、それはそのまま常光の真田氏における地位を示すものであろう。
 常光は曲尾で生涯を閉じたようで、根小屋城の麓に墓が残されている。常光のあとは嫡男の靱負が家督を相続し、元和八年(1622)、信之の松代転封に従って松代へ移り、子孫は代々松代藩家老を勤め、明治維新に至った。
 ところで、 戦国大名の雄であった武田氏に仕えた部将たちにはひとかどの者が多く、武田氏麾下の有力武将たちは「武田二十四将」あるいは「二十五将」などと称されて、その画像などがいまに伝えられている。さらに、かれらの活躍を叙述した『甲陽軍鑑』が江戸時代にもてはやされたことで世に喧伝された。
 大熊朝秀も戦国期の武将として、決して見劣りのする人物ではなかった。しかし、「武田二十四将」「甲陽軍鑑」などに取り上げられていない。これはよそ者扱いをされたのか、錚々たる武将が居並ぶ「武田軍記」の上では小者の部類に入れられたのであろうか。・2007年10月29日

参考資料:大熊備前守/歴史と旅別冊・武田信玄総覧/姓氏家系大辞典  ほか】


■参考略系図
    


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