大野氏は、豊臣氏に仕え関ヶ原の合戦後大坂の陣まで、秀頼の側近くに仕えて実権を奮った大野修理大夫治長が知られる。しかし、治長が有名なわりには、その出自や系譜など、詳しいことはほとんど分かっていない。 太田亮氏の『姓氏家系大辞典』では、丹後国大野を苗字の地とする大野氏のほかに、もう一つ説のあることを指摘され「大野修理亮治長は佐渡守の子として、何地の人なるか詳らかならず。其の子を信濃守と云ふ」としている。 丹後国出自説については、「丹後国の大野邑より起こる。この地、口大野村大野城は大野修理亮居住の地也。修理亮は鬼修理と呼ばれし人にして、大坂にありし大野修理の父也と云ふ」とあり、また、大野の地が大坂城で秀頼に仕えていた大野氏の所領地であったという所伝は『宮津府志』にも、「一説に大坂城に事へし大野氏の領地にて館を設置せし所と云」とあり、そのような説があったことは確かではあるが、それが事実であったかどうか、そして、治長の父修理亮がどのような人物であったかについては明かではない。 ちなみに、丹後関係の軍記物や古い地誌などでは、いずれも大野城を大野修理の居城としている。 ところで、『尾張郡書系図部集』に大野氏の系譜が修められている。これによると、治長の祖父に大野伊賀守治定という人物があり、石清水八幡宮の祀官の家に生れ、弟と家権を争い、敗れて美濃国に流浪したという。そして、のちに織田家に仕え、葉栗郡貝塚に所領を給され、同郡大野村に築城し、天正十八年に死去したとある。そして、治定の子が定長で佐渡守を称し、その妻が大蔵卿の局で、ふたりの間に治長が生れたという系図である。 『尾張郡書系図部集』のにある系図をただちに信じることはできないが、一つの説としてうなづけるところもありそうだ。 治長は、文禄三年(1594)の時点で一万石を領していた。しかし、のちに追放され、関ヶ原の戦い後再び秀頼に仕えた。元和元年(1615)の大坂の陣のとき、秀頼に殉じた。弟治房・治胤(道犬)もそれぞれ戦後捕えられて斬首された。 【参考資料:戦国大名270家出自事典】 ■参考略系図 ・『尾張郡書系図部集』から |