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岩尾大井氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)


 岩尾大井氏は岩村田大井氏の一族で、大井朝光の孫光泰が長土呂に住したことに始まるという。その後、大井氏中興の祖持光の子光照の嫡子行春(貞晴?)が長土呂大井氏を継ぎ、その子行俊が岩尾城を築いて、そこを本拠としたことで岩尾大井氏が成立した。
 文明十八年(1486)行俊は家督を行満に譲った。この行俊の代の延徳元年(1489)、甲斐武田氏が信濃に侵攻し、岩尾城は焼打ちされたが、小諸大井氏・長尾・米持氏らの支援を得て武田氏を追い退けている。行満は明応年中(1492から1500)に仏門に入り、回国修行に出て二十数年後の大永五年(1525)岩尾に帰り、城内に西国・坂東・秩父百番観音巡礼の供養塔を立て、その年のうちに死去した。
 行満が回国修行にあったころは、戦国時代の初期にあたり、岩尾城を顧みずに諸国を巡った背景は何であったのだろうか。戦乱の様相を深くする世相を疎んじて、宗教に救済を願ったとしたら武将としての行満はあまりにも戦国時代の似合わない人柄であったのだろう。

武田氏に属す

 行満のあとは行真が継ぎ、行真は岩尾城主となり祖父行俊の三十三回忌・父行満の十三回忌を執行するなど、岩尾大井氏がもっとも安定した時代であった。行真が天文八年(1539)に死去すると、嫡子の行頼が家督を継いだ。
 天文年間になると、隣国甲斐の武田氏が信濃に兵を進めるようになり、天文十二年には武田晴信(のちの信玄)が長窪の大井貞隆を攻略、長窪大井氏とともに武田氏に抵抗した行頼は岩尾城を攻略され、久しく浪々の身となった。
 その後『高白斎記』によれば天文二十年七月「岩尾弾正初めて若神子出仕」とあり、この年、行頼がはじめて武田氏に出仕したことが知られる。そして、行頼の子行吉は武田氏のもとへ人質に出されたものと思われる。以後、岩尾大井氏は武田氏の麾下に属していたことは疑いないが、たとえば依田信蕃のように活躍を示したという記録は見当たらない。
 また、岩尾大井氏は岩尾城主であったとはいえ、回国修行に出た行満をはじめとして岩尾城に居住していた期間はまっことに少なく、行頼から行吉二代にわたる天正十年(1582)までの四十年間も岩尾城には居住していなかったようである。そのことは、信玄・勝頼の武田氏二代にわたって岩尾城を武田氏が修築・修復していることがそれを裏付けている。
 天正十年、織田軍の甲斐侵攻により、武田勝頼は滅亡し、武田家臣団も四散の運命となった。大井行吉も武田氏滅亡後浪人したが、小田原北条氏の信濃進攻にともない北条氏に臣従し、行吉は初めて岩尾城に帰ることができたのである。

岩尾大井氏の奮戦

 武田氏滅亡後、武田遺臣の多くは駿河の徳川家康の庇護を受ける者が多かった。そして、織田信長が本能寺の変で横死すると、信濃・甲斐の織田勢力は雲散霧消してしまった。その結果、信濃・甲斐両国は徳川氏・北条氏、そして越後の上杉氏の草刈場と化したのである。この状況に対して徳川家康は庇護していた依田信蕃を先兵として信濃に軍を進め、信番はよく家康の嘱望に応えて佐久地方をその勢力下に治めた。大井一族のほとんども信番に降るなかで、信蕃に降ることを快しとしない者は北条氏に属する岩尾大井氏のもとに馳せ集まり、それに大井氏譜代の佳辰たちも続々と行吉のもとに集結してきた。
 依田信蕃は武田氏麾下にあったころから勇将として知られ、岩尾大井氏は無名に近い存在であった。さらに徳川氏を後楯とした信蕃の軍勢に対して、岩尾大井氏の軍勢は烏合の衆であり、周辺のほとんどが信番に属したなかにあって、まさに孤軍奮戦を続けるしかなかった。そして、岩尾城に籠った大井勢は「窮鼠猫を噛む」のたとえの通り、依田信蕃軍に徹底的に抗戦を行ったのである。
 依田軍の総攻撃は天正十一年二月に開始された。岩尾城は逆茂木を隙間なく並べ、逡巡する依田軍に対して、城方は鉄砲・矢の集中攻撃を行い、依田軍に多大な犠牲者を強いた。岩尾城は武田信玄が手塩をかけた縄張りだけに、さすがの信蕃も攻めあぐんだ。しかし、猛将信蕃は先方を変えることなく遮二無二に攻城を繰り返した。その結果、岩尾城の大手門を破り台郭に突入、城方と依田勢との間で乱戦となった。城方は矢倉の上から敵味方を識別して狙撃したため、依田勢の兵はばたばたと討ち倒されたが、信番は次々と新手を繰り出したため激戦は夕方まで続いた。

岩尾城開城

 二日官にわたる総攻撃にも岩尾城は持ちこたえ、面目を潰された信蕃は攻撃三日目には陣頭に立って兵を督戦しまさに火の出るような攻撃を仕掛けた。この信蕃の姿を目にとめた城方の淺沼平兵衛は配下の鉄砲隊に命じてこれを狙撃させた。放たれた弾丸は狙い過たず信蕃に命中、信番とともに攻城を指揮していた弟の信幸も弾丸に当たり依田兄弟は空しく討死を遂げてしまった。主将を失った依田勢は戦意を喪失し、信蕃の末弟信春はひとまず兵を引き揚げた。
 大井行吉は万死に一生も望めない状況の下、敢然と大軍を迎え撃ち、戦意も旺盛であった。この事態に徳川家康が依田軍に付けた軍監柴田康家は開城降伏の使者を送り、行吉の奮戦ぶりを讃えこれ以上の戦いは無駄であると説得した。
 ここに至って行吉もその説得を容れ、城中の将士に城内の財物を分け与え。柴田に城を明け渡した。そして、上野国榛名山麓に移住し、天正十二年(1584)その地で生涯を終えたと伝える。戦国時代の末期に、孤軍よく大軍を迎え撃った大井行吉は人生の晩年に「良き働き場所」を得た人物であったといえよう。逆に、前途洋々たるものがあった依田信蕃は思いがけない挫折を与えられたといえよう。 

【参考資料:もうひとりの真田/長野県歴史人物大事典】


■参考略系図
  


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