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平手氏
引 両
(清和源氏新田氏後裔?)


 尾張の平手氏は『尾張諸家系図』によれば、清和源氏新田氏の一族・世良田有親の子義英に始まるとされている。有親は至徳二年(1385)、宗良親王に属して信濃浪合の合戦で戦死したとも、敗戦後諸国を流浪して三河国に流れたともいわれる、いわゆる伝説上の人物である。また、徳川氏の家伝には、有親の子親氏が松平氏の婿となって三河松平氏の祖になったと伝えている。ということは、平手氏初代義英は親氏の兄弟ということになる。
 さきの系図には義英を永享三年(1431)生まれと註している。そして、その曾孫に政秀が生まれている。松平氏初代の親氏は、その没年が諸説あって1394〜1428年の間に没したとされる。そしてその孫の信光は1404年の生まれであり、その子親忠が1431年に生まれている。親氏と同世代とされている義英は松平氏の系図と比べたとき、四代親忠と同世代ということになる。その出自に関しては後世に作られたものと思われ、いまちなっては不明としかいえない。

平手政秀の活躍

 戦国時代、平手政秀は織田氏に仕えていた。天文二年(1533)、尾張を訪れた公家の山科言継は、政秀邸の造作に目をみはり、数奇の座敷の見事さに驚嘆している。また、政秀は言継和歌会を行うなど文芸にも造詣が深かった。
 信長誕生とともに宿老となり、主に財政を担当した。天文十二年五月には、信長の父信秀の名代として上洛し、朝廷に御所の築地修理料千貫文を献上した。そのころ、信秀は美濃に侵攻をする度に斎藤道三から撃退され続けていた。その窮地を救い、織田・斎藤同盟を成立させたのが、ほかならぬ政秀であった。そして、その証として、同十八年二月に信長は道三の娘を娶ったのである。この同盟と婚姻は、まさに政秀の政治的手腕に負うところが大きかったといえよう。
 政秀といえば、信長の言動をしばしば諌め、ついに諌死して果てたことはつとに知られている。そして主従間の美談として伝えられている。だが、真相はそのような綺麗事ではなかったようだ。『信長公記』には、ある時信長が、政秀の長男が所有する駿馬を所望したが、その命を拒否された。それが因となり、主従間が不和になったとある。さらに続けて、政秀は信長の不真面目な行状を悔やみ。守り立てる甲斐もなく、前途を悲観して切腹したと記されているのである。
 美談とされている政秀の自殺は、主君を思って諌死であったのかどうか疑問の残るところである。しかし、信長はその死を悼み、沢義彦宗恩を開山として政秀の所領春日井郡小木村に一寺を建立し。寺号は「政秀寺」と名付けられた。
 政秀の孫汎秀は、元亀三年(1572)武田信玄の上洛軍を迎え撃った徳川家康の援軍として出陣、十二月三方ケ原の戦いで、先陣をきって武田信玄の本陣に切り込み討死にした。享年二十二歳であった。ここに平手氏の嫡流は断絶した。嫡流が断絶したあと、平手一族で織田家臣として存続したのは政秀の甥にあたる大炊助季胤である。季胤は本能寺の変後に尾張に入国した織田信雄に仕え、六千貫文を知行する有力家臣となり検地奉行などをつとめた。



■参考略系図
 
  


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