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杉原氏
萩の丸(桓武平氏貞衡流)


 杉原氏の祖は桓武平氏貞衡という。すなわち平貞衝七世の孫光平がはじめて杉原氏を称したという。『寛政重修諸家譜』でも同じ考えに立っており「寛永系図にいはく、光平がときはじめて杉原を称す。左衛門尉貞衡が八代の孫なり」としている。
 なお、同書では、時盛から家利までの間を中絶しているが、一説には時盛の子を隆泰とし、その子を家利とする考え方のあることを紹介している。この点についてはよくわからない。後世、有名になった杉原氏が貞衡流の杉原氏に結び付けたとも考えられる。
 それらはともかくとして、杉原氏のことが比較的はっきりしてくるのは、家次の父家利あたりからだ。『藩翰譜』には、「十郎兵衛尉家利が祖父の世より尾張国の住人とは成りてけり。家利一男二女を設く。嫡男七郎左衛門尉家次は、伯耆守長房が父なりけり。姉は浅野又右衛門尉長勝が妻、妹は杉原入道道松が妻にて、豊臣太閣家政所の御母公なり。家次所縁に就て秀吉の家に親しかりしかば、彼の家に仕へて、天正十一年九月九日。五十四歳にて死す」とある。
 天正十年の山崎の戦いののち、家次は丹波国福知山城主となり、賤ケ岳の合戦ののちは所領も加増されて三万二千石となっている。
 長房は近江坂本城、豊後杵築城、但馬豊岡城など転々としているが、関ヶ原の戦いのときには西軍に属し、丹後田辺城攻めに加わっている。戦後、所領は安堵された。これは浅野長政の婿であり、東軍への内通が認められたことによる。しかし、長房の子長重に子がなく、竹中家から重玄を養子を迎えたが、かれにも子がなく結局大名としての杉原氏は断絶した。



■参考略系図


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