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大日方氏
丸に二つ引両
(清和源氏小笠原氏流)


 戦国時代、北信濃の一角に小さいながらも一勢力を築いていた武士に大日方氏がいた。大日方氏は「おおひがた」「おおひなた」などと読み、系図によれば信濃守護小笠原氏の一族ということになっている。すなわち、小笠原貞朝の季子長利は、兄長棟と折り合いが悪く、ついには寛正五年(1464)に家を出奔した。そして、牧野島城主香坂氏を頼り、その養子となって大日方小五郎長政と称するようになったのだという。
 その後、小川左右衛門貞綱の居城小川城を攻略した長政は、小川城に居を移し小川殿と呼ばれるようになった。こうして、長政と改め小川城を拠点として、次第に勢力を拡大していったのである。。
 ところで、大日方氏の出自に関しては不明な部分が多い。まず小笠原貞朝の子とすれば、明応元年(1492)に生まれた兄長棟より四十年以上前に出生したことになり、一説にいう小笠原長朝の子とするものも年齢的にあわない。長政を小笠原氏の出自とするならば、小笠原清宗の子で長朝の弟とするのが妥当なところであろうか。一方、大日方氏の系図も長政の子を直政とするもの、長利(長政)の子を重秀とするもの、さらに長政の子を直秀とするものもあり、こちらも諸説区々としていずれとも定め難い状況である。
 他方、大日方氏は「二つ引」を家紋にしたと伝えられている。小笠原氏から分かれ出たとすれば、「三階菱」を家紋に用いたと思われるが、ここにも大日方氏の出自に関しての疑問が生じてくる。もっとも、香坂氏は「竪二つ引」を用いており、大日方氏の「二つ引」は香坂氏の家紋を受け継いだ結果とも思われる。
 このように、大日方氏に関しては疑問点が多いが、北信濃の一角にあって、よく戦国時代を生きたことだけは疑いのない史実である。

武田氏に属す

 長政のあとは嫡男の直政が継いだが男子がなかったため、そのあとは弟の直忠が継承した。このころになると時代は戦国乱世であり、信濃では小笠原氏、村上氏、木曾氏、諏訪氏らが戦国大名として割拠していた。一方、信濃の隣国甲斐では武田氏が国内を統一し、やがて信濃に侵攻するようになった。
 直忠には直経、直武、直長、直龍、直親 の五人の男子があり、家督は嫡男の右衛門直経が継いでいた。武田氏の信濃侵攻に対して兄弟をはじめとした大日方一族は、上杉方と武田方 のいづれに組するかで意見が分かれた。惣領の直経は武田氏への徹底抗戦を主張し、武田氏に通じようとする弟たちは兄の説得に努めた。しかし、ついに直経は聞き入れなかったため、謀計を もって直経を殺害、季子の直親が宗家の家督を継承した。以後、武田氏に属した大日方氏は、鬼無里などを支配下におき、武田氏の越後への備えの任を担った。
 やがて、北信をめぐって越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)と武田信玄との間で、川中島の戦いが展開されるようになる。永禄元年(1558)、武田信玄は戸隠衆徒を誘い戸隠中院に願文を捧げて、信濃一円の掌握と上杉の滅亡を祈願させた。これに怒った謙信は、翌二年に戸隠に出兵、戸隠衆徒は鬼無里に逃れ、さらに大日方氏を頼った。そして、小川郷筏カ峰に戸隠の四所権現を移して祀り、一山の法式を修めたと伝えられている。
 武田氏に属した大日方氏は各地の戦いに出陣し、信玄没後の長篠の合戦にも参戦して一族から戦死者を出している。大日方氏の武田家中における勢力をうかがうものとして、大日方氏は軍役百十騎をつとめ、屋代氏の七十騎を凌いでいた。やがて、大日方氏は一族としての行動から、それぞれが自立したカタチで武田軍団に配されていった。また、武田義信事件に際して、義信に味方するものもあったが、小川城を本拠としてよく勢力を保った。
 元亀四年(天正元年=1573)、上洛の途上にあった武田信玄が死去した。信玄のあとは勝頼が継ぎ、よく勢力を維持した。しかし、天正三年、三河国長篠において織田・徳川連合軍と戦った勝頼は、壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏は織田信長の攻勢によって勢力を後退させていった。そして、天正十年(1582)、織田軍の甲斐侵攻によって、武田氏は滅亡の運命となった。武田氏滅亡後、信濃・甲斐は織田氏の部将に分与され、大日方氏は逼塞を余儀なくされた。

大日方氏、近世へ

 ところが、天正十年六月、京で本能寺の変が起り、織田信長が横死した。信濃・甲斐の織田氏の部将たちは上方に退去し、越後の上杉景勝、三河の徳川家康、小田原の北条氏政らがそれぞれ信濃・甲斐に出兵してきた。一方、小笠原貞慶ら信濃ゆかりの武将たちも旧領を回復せんものと、信濃に兵を入れてきた。この争乱のなかで、大日方一族は上杉方、小笠原方に分裂、それぞれ敵対するに至った。
 かくして、大日方氏は一族分裂となり、乱世の荒波に呑まれていった。結果、武士を捨てて帰農する者、 近世大名に家臣として仕える者などがいた。そのようななかで、真田氏に仕えた大日方氏は郡奉行をつとめ、 一族の真田氏仕官につとめている。そして、そられの家々に大日方氏の歴史がさまざまなカタチで伝えられたのである。

参考資料:小川村誌/上水内郡誌「歴史編」 ほか】



■参考略系図

 


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