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温井氏
●三つ柏
●清和源氏足利氏流/藤原姓?
「姓氏苗字事典」の能登温井氏の項を参考にしました。


 室町時代から戦国時代、能登守護職は畠山氏が世襲した。戦国期の畠山氏には、長九郎左衛門尉続連・三宅筑前守総広・平加賀守総知・伊丹宗右衛門尉続堅・遊佐信濃入道宗円・遊佐美作守続光、そして温井備中入道紹春の七人衆と称される重臣があった。
 温井氏は、もと輪島の領主として発展した国人で、南北朝時代以降、長氏が大屋荘の中枢地帯から後退したのち、鳳至川・河原田川の合流するかつての大屋港を本拠にして次第に勢力を拡大していった。温井氏の祖は東福寺の塔頭である栗棘庵(りっきょくあん)再興の開祖覚山空性(能登の温井氏、実名不詳)といわれ、能登に残された棟札などから藤原姓とされる。
 余談ながら、栗棘庵は能登守護畠山氏を檀越に迎え、能登には珍しい臨済宗の発展に寄与したことが知られる。温井氏と守護畠山氏との関係は、栗棘庵を紐帯としてもたらされたものであったのかも知れない。また、栗棘庵には温井孝宗の画像が残され、また温井紹春(総貞)が「一宮の合戦(1553)」の結果を報じた書状など温井氏関係の文書も伝来している。

温井氏の出自

 ところで、温井氏の出自を清和源氏足利氏の一族桃井氏の後裔とする説がある。すなわち、足利尊氏に従って建武中興に功があった桃井直常をその祖とするものである。直常は、南北朝内乱が始まると、扇一揆と呼ばれた猛兵集団を率いて各地を転戦した。そして、若狭・伊賀・越中・能登などの守護に任じられ、桃井直常の勢力は越中を中心として北陸道に広がった。
 尊氏と弟の直義が争った「観応の掾乱(1350〜51)」が勃発すると、直常は直義党の中心人物となり一時は京都を直義党で制圧したこともあった。しかし、文和元年(正平七年=1352)、尊氏との決戦に敗れた直義が捕えられ、間もなく死去(尊氏による毒殺説もある)すると直義党の勢力は瓦解した。かくして擾乱は終熄したが、直常はその後も直義党として北国において幕府軍と戦い続けた。
 孤軍奮闘する直常であったが、貞治七年(正平二十三年=1368)、居城越中松倉城を幕府軍に包囲され城は落ち、応安三年(建徳元年=1370)越中守護斯波義将らと戦い敗れて飛騨に逃れた。翌年、飛騨の国司姉小路家綱の援助を得て越中に侵攻したが敗れ、以後直常の姿は歴史から消えた。とはいえ、直常が諸処を転戦している間に一族は各地に広がり、能登温井氏もそのような流れの一つだという。また直常の孫桃井直詮(幼名幸若丸)は、戦国武将にもてはやされた“幸若舞”を創始した人物と言われている。
 温井氏が桃井氏の後裔を称したのは、桃井氏が南北朝時代に越中の守護として能登にもたびたび乱入したこと、さらに桃井氏は清和源氏の足利氏流であり、この系譜に連なることで足利将軍家や守護畠山氏からの庇護を期待したためとも考えられる。さらに、想像を許されるならば、清和源氏足利氏流を称することで、場合によっては能登守護畠山氏にとって代わらんとする下心があった現れとも想像される。

畠山氏に仕える

 温井氏が本拠地とした輪島を含む大屋荘は、鎌倉時代に源頼朝のあつい信頼をえた長信連が地頭職を賜り、以後、長氏が支配してきたところであった。長氏は室町幕府に仕えて在京することが多かったため、在地に対する支配力を弱め、守護畠山氏と密着することで頭角をあらわした鳳至郡志津良庄の代官職であった温井氏が長氏の領地を侵していったようだ。
 それは備中守俊宗の頃からで、『輪島重蔵宮(じゅうぞうのみや)』に残された棟札には、文明八年(1476)地頭温井備中俊宗・代官温井彦右衛門尉為宗、また輪島別所谷八幡宮に残る明応二年(1493)銘の寄進札には領主藤原朝臣俊宗の名が記されている。これらの棟札は、十五世紀の末ごろに大屋荘が長氏の支配を離れて、温井俊宗の支配下にあったことを示すものである。
 俊宗の子が孝宗で兵庫助を称し、義統・義元・慶致・義総の能登畠山氏四代に仕えた。文明十一年(1479)山城清水寺の再興に柱一本二十貫文を奉加したのを初見とし、戦国前期の永正から大永年間(1504〜27)にかけて、鳳至郡の岩蔵寺や輪島重蔵宮に寺領寄進・社殿造営を行ったことが知られ、重蔵宮には大永四年(1524)銘の備中守孝宗の棟札が残されている。また、当代の文化人として著名な三条西実隆から和歌の判詞を貰い、その著述を称賛された風流の士でもあった。しかし、享禄四年(1531)十二月、加賀一向一揆の内紛に際し、加州三ケ寺派を支援する畠山氏の派兵に従軍し太田の合戦で敗死した。
 あとを継いだ総貞(備中入道紹春)も和歌や漢詩文に造詣が深く、文芸を愛好した義総の寵愛を得て畠山氏家臣団内部で政治的台頭をはかった。
 温井氏が仕えた能登畠山氏は、義総の時代がもっとも領国が安定し、七尾城の整備が行われ城下町七尾が誕生した。能登に畠山文化を開かせた義総は天文十四年(1545)に亡くなり、嫡子義続が家督を相続した。義続の時代は下剋上が横行する戦国時代の最中にあり、能登も争乱に翻弄されるようになるのである。

温井紹春の台頭

 天文十六年、義総の弟で義続には叔父にあたる畠山駿河父子をはじめとする能登牢人が、加賀一向一揆の支援を得て羽咋郡押水に乱入してきた。このとき、総貞は出陣しなかったが温井一族は一番合戦をして、侵入軍数百人を討ち取る高名をあげ七尾方を大勝利に導いた。
 この合戦を契機として、総貞を惣領とする温井一族が台頭した。それに対して能登守護代の系譜を引き、畠山氏筆頭の重臣である遊佐続光とその一党が温井氏を牽制した。遊佐氏は畠山氏の家督争いである義元と弟慶致との確執を引き起こしたことから不遇な立場となり、義総政権のもとでは温井一族の後塵を拝することになった。それだけに、義続政権下でも勢力を維持する温井総貞を排斥しようとしたのである。
 それに対して温井総貞は、義続を推戴して遊佐続光と対立し、天文十九年、七尾城から退去した遊佐続光一党は石動山衆徒、加賀の一向一揆らと結んで七尾城を包囲攻撃した。総貞と義続は七尾に籠城し、石動山や七尾城下で激戦が行われた。戦いは年を越し、総貞と義続方が攻勢に転じたことで、両派の和睦が成立し内乱は一応収束された。乱後、義続は出家して徳祐と号し家督を義綱に譲って隠退し、総貞も入道して紹春を号した。
 この乱において能登畠山氏の権威は著しく失墜し、能登畠山氏七人衆が成立し、能登国の政治は合議制で行われるようになったのである。七人衆のなかでは、温井備中入道紹春と遊佐美作守続光の二人が双璧であった。
 やがて、続光と紹春の間に暗闘が繰り広げられるようになり、天文二十二年五月以降、続光の姿は七尾城内からみえなくなる。おそらく温井氏が長氏と連合したことで、追いつめられた続光は伊丹続堅とともに加賀に奔ったようだ。そして、七尾城内には続光と伊丹続堅に替わって、神保総誠と温井続宗が加わった新しい七人衆が成立した。

畠山氏家臣団の内訌

 同年の十二月、遊佐続光は畠山駿河を擁し、河内の遊佐源五・安見紀兵衛および加賀一向一揆の支援を得て七尾城に攻め寄せた。迎え撃った温井紹春・続宗父子は、遊佐・畠山駿河の軍と田鶴浜・大槻で激戦を展開し、駿河子息・遊佐一族三名ほか雑兵四百余人を討ち取る勝利をえた。さらに、加賀へ逃げようとする遊佐勢を追撃し、遊佐同名の者、伊丹続堅をはじめ河内衆ら四千余人を討ち取り続光を越前へ奔らせた。これが「大槻合戦」とよばれる戦いで、以後、畠山義続・義綱父子を傀儡化した紹春は、その勢威をもって領国支配の主導権を掌握したが、同時に畠山領国の動揺をも招いたのである。
 子の続宗は、父紹春が畠山家臣団内部で政治的台頭をはかるなかで、軍事行動の面でそれを補佐し温井一族の発展に努めた。しかし、紹春の時代も長くは続かなかった。弘治二年(1556)、温井一族の台頭を快く思わない畠山義綱は近臣飯川義宗と謀って、連歌会にことよせて紹春を殺害した。このとき、紹春の長子続宗も殺害されたようで、温井・三宅の一族は年少の景隆とその弟で三宅総広の養嗣子となっていた長盛を擁して、加賀・越中・越後に難を避けた。
 間もなく温井一党は、甲斐の武田信玄、加賀一向一揆の援助を受け、能登復帰の軍事行動を開始した。そして、口能登一帯を占領すると、鹿島郡の勝山城に拠った。温井一族の攻勢に対して七尾城中では、さきに能登から出奔した遊佐続光を帰参させ、越中一揆や近江の佐々木六角氏らに援軍を求めた。永禄元年(1558)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の加勢を得た七尾城方の攻勢によって勝山城は陥落し、温井一党はふたたび加賀に撤退した。その後も温井一党は能登への乱入を繰り返したが、永禄三年(1560)押水に敗退してついに能登復帰はならなかった。
 こうして、温井一族の排斥に成功した義綱は、政権の建て直しをはかり専制的立場を強め、遊佐続光らの重臣を押さえようとした。さらに、井上英教・長連理らを奉行に取り立て、一宮気多神社の造営などを行い大名権力の強化を推進した。しかし、このような義綱の領国再建への動きは重臣層の反発を招き、永禄九年(1566)、遊佐続光・長続連・八代俊盛らは義綱と父徳祐を七尾城から追放し、義綱の嫡男義慶(義隆)を擁立したのである。

七尾城の攻防

 永禄十二年(1569)、上杉謙信の援助を受けた義綱は七尾城下に侵攻し激戦が展開された。この義綱の攻勢に対して七尾城では兵力の増強をはかり、景隆を中心とする温井一族は帰参を赦され、擁立された幼主の義慶に仕え本領輪島の回復もはかった。以後、義慶政権のもとで年寄衆に返り咲き領国支配に関与した。かくして、七尾城では幼主義慶を擁して温井景隆らの重臣が加賀・越中の一向一揆を支援し、謙信の能登進出を阻止した。
 天正元年(1573)、甲斐の武田信玄が上洛の途上において死去した。後顧の憂いから開放された謙信は越中に入ると神保氏を下し、つづいて加賀への進撃を開始した。他方、京を制圧下におく織田信長が越前の朝倉氏を滅ぼし、加賀南部に軍を進めてきた。そのような情勢下の天正二年七月、七尾城主の畠山義隆が重臣らによって毒殺された。義隆があまりに「能き大将」に成長してきたことを危惧した重臣たちが、共同謀議の結果、義隆をなきものにしたのであった。義隆の死後は、わずか二歳の春王丸が城主に擁立された。
 天正三年八月、謙信は織田信長と対決するため能登への遠征を開始し、七尾城へは謙信の旗下に加わるように使者が送られた。このとき、謙信は畠山義綱の弟で猶子にしていた畠山義春(上条政繁)を七尾の新城主として送り込もうとしたようだ。この謙信の姿勢に温井景隆ら七尾城将は反発し、七尾城を楯として上杉軍に抵抗姿勢を示したのであった。ここに、戦国史上に有名な七尾城の攻防戦が始まったのである。
 七尾城の畠山軍は籠城作戦をとり、温井景隆・三宅長盛の兄弟は搦手大石谷口を守った。やがて、城内に疫病が流行し城主春王丸が死去してしまった。籠城戦のさなかに幼主春王丸が死んだことで城内は動揺した。そこで、長綱連は織田軍の来援に死活をかけ、弟の連龍を城外に脱出させた。一方、七尾城兵の徹底抗戦に手を焼いた謙信は内応者をさぐった。これに遊佐続光が応じ、天正五年九月十五日、続光の手引きによって城内に入った上杉軍は長続連・綱連父子をはじめとした長一族を討ち取った。ここに七尾城は落城、能登畠山氏も滅亡した。
 城を脱出した連龍は近江安土城にたどりつき、織田信長からの援軍を先導して南加賀まで進軍した。そこで七尾城の落城を知った織田軍は軍を帰そうとしたが、七尾城から南下してきた上杉軍との間で合戦となった。「手取川の合戦」と呼ばれる戦いで、結果は上杉軍の大勝利に終わった。このとき、謙信がそのまま織田軍を追撃して軍を上洛させていれば、その後の歴史は大きく変っていたかも知れない。しかし、謙信は軍を返し七尾城代に鯵坂長実を任じて、十二月に春日山城に凱旋した。そして、翌年の三月。関東への陣ぶれを発した直後に急病をえて帰らぬ人となった。

温井氏の滅亡

 その後、長一族で一人生き延びた連龍は復讐の念に燃え、天正六年、羽咋郡富木に入り穴水城を奪回した。温井景隆・三宅長盛らは、上杉氏の諸将や遊佐続光らとともに、連龍を攻撃し越中に奔らせた。翌年、三宅長盛・温井景隆らは信長に誼を通じ謀略を巡らして甲山城を奪い、ついで正院城の長景連を越後に逐った。さらに、七尾城将の鯵坂長実をも追放し、七尾城を二年ぶりに奪還することに成功した。そして、景隆は七尾城を占拠した畠山氏旧臣勢力の主将となり、織田信長に帰服したのである。
 このとき、景隆らは連龍に誓書を送って和睦を求めたが、温井・遊佐氏らを仇敵視する長連龍はそれを許容せず、同八年六月、羽咋郡菱脇で合戦となった。温井氏ら七尾勢は連龍方に敗れ、その後も七尾城方は連龍の前に連戦連敗した。
 温井景隆らは織田信長のもとに使者を送り、七尾城の明け渡しを願い出た。信長はこれを許して徳山則秀を能登へ下向させ、翌年三月には菅谷長頼を七尾城代として派遣した。遊佐続光・盛光父子は逐電し、温井景隆や三宅長盛らは七尾城を長頼に明け渡して石動山に退去した。連龍は続光らを探し出し、遊佐父子をはじめその一族を皆殺しにした。遊佐一族の殺害されたことを聞いた景隆らは能登を去って越後に亡命した。
 翌天正十年六月、信長が本能寺の変で横死すると、景隆は石動山天平寺の衆徒と結んで能登に入国し、鹿島郡の荒山砦に拠って七尾小丸山城の前田利家に叛した。しかし、前田利家・佐久間盛政らに攻められて敗退、温井氏は滅亡した。
 ところで、温井一族には、紹春の流れのほかに、永正四年(1507)岩蔵寺を再建した藤八郎統永、天文末年ころの下総守光宗、五郎左衛門尉景統、彦左衛門尉慶宗、七郎左衛門尉盛宗、上野介続盛らが知られるが、それぞれ系譜上の関係は明確ではない。・2005年4月6日

主な参考資料:石川県史/七尾市史/日本城郭体系 など】


■参考略系図
清和源氏足利氏流桃井氏の後裔とする説のものを掲載した。温井氏の家系は戦国期以前に関しては不詳としかいいようがないのである。一部、畠山義綱さまから情報をいただきました。


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