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長屋氏
三つ柏
(桓武平氏良文流鎌倉氏族)
子孫、使用家紋様々にあり


 その祖は源義家に従い、後三年の役に勇名をあげた鎌倉権五郎景政と伝える。景政の孫義景は相模国三浦郡長江村に住して、長江太郎を称した。その長男師景は今須村長江氏の祖となり、二男明義の子胤明は承久の乱の戦功により、相模国長屋を領し、その子行景が長屋氏を称した。
 行景の子景頼が相模国から美濃国に来住し本巣郡長屋に住し、ついで、不破郡垂井に移住したと伝える。以後、代々垂井に住したて美濃守護土岐氏に属した。
 景元は土岐政頼に仕え、明応四年(1495)、美濃の応仁の乱と呼ばれる舟田合戦で戦死した。  景教の長男景興は、垂井より赤坂を切り取り揖斐郡相羽城に移り、相羽城に拠った。この頃、長屋氏の知行は二万石余であったという。天文十六年十二月斎藤道三に攻められて、父子ともに滅亡した。
 景教の弟重景は大野郡更地城主で、天文年間武儀郡に移封された。天文十一年八月、斎藤道三が守護土岐頼芸の拠る大桑城を攻めたとき、重景は頼芸の麾下にあった討死した。その子道重は板取城主として牧七郷を領した。斎藤義竜・竜興に仕え、弘治二年、斎藤道三と秀竜父子が戦った長良合戦には、義竜の麾下として戦った。
 道重の子景重は道三に攻められて死んだ相羽城主景興の子で、養子となったものである。天正十年、豊臣秀吉に気脈を通じ、織田信孝方の郡上八幡城主遠藤氏に攻められ降伏した。その後、文禄三年上有知の佐藤方政に攻められ飛騨国増島城に逃れ、金森可重を頼んだ。このとき、養父の道重は門原村で討死した。
 ところで金森可重は景重の子で、金森長近に仕えて、しばしば戦功を挙げ、それを長近に見込まれて養子となったものという。
 長屋氏一族は、戦国時代斎藤氏に仕えた。道重の叔父正重は揖斐五郎光親に仕えて、天文十六年長井氏の麾下に属して朝倉義景の軍と奈礼坂に戦い、長良合戦には義竜の麾下で働いた。その子正義は福島正則に仕え関ヶ原の合戦に従軍、のち大坂冬の陣で討死にした。その弟長政は義竜・竜興に仕え、永禄十年稲葉山城の落城後、木田郷に蟄居、のち織田氏に仕えた。その子正隆は岐阜城主織田秀信に仕え、関ヶ原の合戦で秀信が滅ぶと、帰農した。
 道重の実子で景重の義弟となる定重は武儀郡板取白谷城主、斎藤義竜・竜興に仕え、その没落後織田信長に仕えた。しかし、信長の怒りをかって和泉に逃れ、後藤堂高虎に仕えたという。
 鎌倉時代から戦国時代にかけて、美濃国不破郡に勢力を有した長屋氏であったが、養子となって金森氏を継いだ可重を除けば、大名家として、あるいは徳川旗本家として残ることはできなかった。しかし、金森氏も江戸時代中期に罪を被って所領没収、子孫は大名の列から外れた。まさに、家が興るも滅びるも「一定の夢の如く」といったところか。



■参考略系図  
  


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