清和源氏新田支族で、上野国新田郡田中村より起こる。新田系図に「新田義清、田中五郎を称し上州新田郡田中に住す、墓は田中村長慶寺にあり」とみえる。義清は新田里見氏二代義成の弟で、里見田中氏を興した。承久の乱後、大島・大井田・鳥山などの甥たちが越後に下って越後新田党を形成すると、義清あるいはその子重政も越後に下り、越後新田党の一員となった。承久の乱後に、越後国内に所領を行賞されていたものと思われるが、その所在地は不明である。 南北朝の争乱 元弘三年(1333)五月、新田義貞が挙兵の直後、その麾下に急ぎ馳せ参じた越後新田党のうちに、里見田中氏の姿もあった。経村・経氏兄弟とそれぞれの息子たちであったと考えられる。その後、建武政権成立とともに兄弟は行賞され、ともに蔵人に任じられた。また、経村の嫡孫は大炊助に、経氏の子政継・氏政はそれぞれ左近蔵人、右近蔵人に任じられている。 南北朝内乱勃発直後のころ、田中一族は新田義貞に従って各地を転戦した。その間、一族から多くの戦死者が出たようで、庶流の経氏の次男氏政の子宗村が田中氏嫡流義房の養子になって、その跡を嗣いでいる。直後、新田義貞・脇屋義助などの死が相次ぎ、正平十三年(1358)十月に新田義興が武蔵国矢口の渡しで殺害されると、田中宗村は九州に渡って、征西将軍宮懐良親王の軍に加わった。そして、翌年八月の筑後川合戦において菊地武光麾下として戦い、ここで戦死を遂げた。 こうして里見田中氏の嫡流は断絶し、義房の末弟政綱の系統が田中氏の家督を継承するようになった。このころは、本領の越後にいたらしい。しかし、正平二十三年(1368)末、越後新田党は。関東管領で越後守護の上杉憲顕の軍勢に攻撃され、散々に敗れて越後での新田党の活動は止んだ。そして新田党えあった田中政綱も、越後での行動がままならなくなり、苗字の地である上野国新田荘田中郷に帰った。そのころ、新田荘は足利氏の支配下にあり、政綱の日常は蟄居同然であったようだ。 その子の時綱は、天授五年(1379)室町幕府三代将軍足利義満の赦免を受けて、苗字の地田中郷の安堵を受けたといわれる。時綱から四代目の経忠のときに、応仁の乱が起こった。新田系図によれば、経忠は同乱で戦死したとみえるが、東西両軍のいずれに属したかは不明である。 関東の動乱 経忠の孫為忠のときの応永二十三年(1416)十月、上杉禅秀の乱が起こった。このとき、新田義宗の次男岩松満純は、禅秀方に属していた。そして、里見・鳥山・世良田・額田・大島・大舘・堀口・桃井等の新田系諸氏が、その麾下にあった。 これに対して、義宗の三男新田貞氏は、足利持氏を救けて立った。岩松家の養子に入った満純よりも、弟ではあっても貞氏の方が新田党の嫡流だと自負したもののようである。結果的に、兄弟の対立となり、貞氏方には横瀬・由良氏らが従っていた。こうして、新田党同士が互いに攻撃しあうようになり、十二月、館林合戦で激突した。田中為忠は十月の鎌倉佐介ケ谷の合戦で、手傷を負って帰郷していたことから、弟の経友が貞氏方の麾下にあって出陣した。 禅秀の乱は、足利持氏方の勝利に終わり、持氏方に参陣した経友が優位に立つようになり、やがて里見田中氏は経友系が嫡流ということになった。経友に孫経安は、古河公方足利成氏に仕えたという。しかし、経安から五代目の正行は、新田貞氏の曾孫横瀬国繁に仕えて上野国新田荘金山城下にあった。国繁は金山城主の岩松明純の家老であった。その後、国繁の孫国経は金山城主岩松昌純を下剋上で殺害し、金山城を手中にした。このとき、正行の子正繁は横瀬家を去って浪人した。のちに三河酒井家に仕えたという。そして、その子孫は徳川家と関係を結び、江戸幕府の旗本になって明治維新を迎えた。 ●清和源氏岩松氏流 こちらも上野国新田郡田中村発祥という。尊卑分脈に「畠山義純−時朝(田中次郎)−時国−満国」と見え、また、畠山系図に「岩松義純の子 時朝(田中二郎)」と見える。 ……… ■清和源氏岩松氏流 田中氏系図を見る。 ■参考略系図 |