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大光寺氏
割菱/九曜
(清和源氏南部氏流)


 大光寺南部氏は、津軽郡代に任じられた南部光康が祖と伝えている。光康は二十代南部信時の四男に生まれ、田子城に住し、現在の青森市郊外の横内にあったという堤ヶ浦城を賜った。光康のあと、経行(南部彦三郎宗経の子ともいう)、景行とつづき、景行が大光寺城に移り、以後大光寺氏を称するようになった。
 康正三年(1457)、根城南部の八戸政経は田名部に起きた「蠣崎蔵人の乱」を平定して下北半島を手に入れる。 これで、南部氏は津軽・下北・糠部・岩手・閉伊・比内・鹿角の大部分を領することになった。 これは現在の青森県全域と岩手県と秋田県の北半分に相当することになり、南部氏は文字通り北奥の覇者となったのである。
 『南部史要』の文明十五年(1483)の記事に、三戸南部二十代代南部信時は、 弟彦九郎行実(四子光康のことか?)に命じて、兵を率いさせて津軽の三代利右衛門を討伐した。行実は利右衛門と戦い、利右衛門を斬り津軽平定の功を立てたとある。以後、彦九郎行実は南部氏の北辺の守備の任に補されたようだ。
 十六世紀の天文十五年(1546)、『津軽郡中名字』によれば「今都遐流三郡の大名は、鼻和郡三千八百町は、大浦の屋形南部信州盛信と申也。 平賀郡二千八百町は、大光寺南部遠州源政行と申也。田舎郡二千八百町、奥法郡二千余町・保内一千貫は、伊勢国司浪岡御所源具永卿也。」とある。大光寺南部氏が津軽の有力者に成長していたことがうかがわれる。
 戦国時代末期の津軽は、大浦為信が勢力を拡大し、南部氏の拠点をさまざまな手段をもって攻略していった。その間、大光寺氏も大浦氏に降ったこともあるようだ。しかし、天正九年(1581)大光寺氏は大光寺城に拠って大浦氏の攻勢に耐えていたことが知られる。このころの大光寺氏は、政景が当主であったようだ。
 大浦氏の津軽統一への野望は衰えることはなく、南部氏家中の相続問題などもあって、ついに天正十六年、大光寺氏光親は大光寺城を撤退した。一説に大浦為信の讒言によって、大光寺城を去ることになったのだともいう。とはいうが、天正十六年ころには、津軽一帯は大浦為信が制圧しており、大光寺氏も撤退するしか道はなかったようだ。
 津軽から撤退した光親は秋田に奔り、比内山田村に潜居していたが、翌十七年、大館城主前田下総の死を知ると、ただちに大館を占拠した。そして、その旨を八戸薩摩守を通じて南部信直に報じている。南部氏は秋田安東氏と抗争を続けていたこともあって、ただちに北信愛らを派遣して大館城の守備を強化した。その後も大光寺氏は南部宗家に仕えて活躍し、近世には盛岡南部藩士として続いている。

参考資料:・岩手県史 など】  



■参考略系図


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