ヘッダイメージ



毛受氏
三つ雁*
(清和源氏頼光流)
*三つ巴とするものもある。


 毛受(めんじゅ)氏は、群書類従本「尾張諸家譜」に収録された毛受氏系図によれば、清和源氏頼光流となっている。頼光の子頼国は美濃守に任じられ、美濃国井之口城主であった。そして、その後裔にあたる頼定は永徳の頃(1381〜83)、後小松天皇に仕え、権大進、兵衛佐と号し、美濃国井之口周辺の北鵜飼八郷を領して、鵜飼氏を称したとみえている。いずれにしても、系図上に見られることであり、その真偽のほどは定かではない。
 そして、頼定の子が頼勝で、正長元年(1428)に足利将軍義教に仕えた。その子頼令は足利義政に仕え、頼令の孫の勝春も義政に、その弟の勝則は足利義尚に仕えたことが系図に記されている、室町期、鵜飼氏は北鵜飼八郷を領して、代々が足利将軍家に仕えたということなのであろう。
 勝則の孫鵜飼勝明にいたって毛受庄左衛門を称し、尾張国春日井郡稲葉村(一説に中島郡稲葉村)に移住したとされている。毛受は通常「めんじゅ」と呼ばれるが、「めんじょ」「めんしょう」とも読まれる。勝明には三人の男子があり、長男が勝惟で、次男が照景(家照)、三男が庄兵衛(吉勝)であった。

柴田勝家に仕える

 兄弟三人は、ともに織田信長の老臣である柴田勝家に仕えた。なかでも、世に知られたのが次男の家照である。
 家照は十二歳ではじめて柴田勝家に仕え、のちに小姓頭となった。勝家子飼いの寵臣であった。そして累進して、一万石の封を受けるまでに出世した。寵を得たとはいえ、武士としてかなりの人物であったことがうかがわれる。『野史』の伝えるところによれば、家照は天正二年(1574)十七歳のとき、長島の一向一揆討伐の軍に従い。敵勢に奪われた勝家の馬印を取り返すという手柄ゐ立てた。すでに織田家中で知られた若武者だったのである。
 その後天正十年(1582)、織田信長が明智光秀によって殺され、豊臣秀吉は光秀と山崎に戦って主君信長の仇を討ち、織田家中で大きな発言権を得た。一方、実力第一の勝家は織田家の後継者選びに際して秀吉に一敗し、越前北ノ庄城に引き籠った。
 そして、豊臣秀吉と柴田勝家とは雌雄を決することとなる。すなわち、天正十一年四月、近江国賤ケ岳において両軍は対峙し、結局、柴田勝家が秀吉の軍に敗れることになる。このとき、家照は勝家に従って、その本陣にいた。
 賤ケ岳で対陣していた両軍は、互いに相手の出方を見て膠着状態に陥っていた。このとき、柴田方の将佐久間盛政が動いた。そして、秀吉方の中川氏らの陣を襲って、これを撃退した。しかし、佐久間の陣は柴田勢としては前線に過ぎ、勝家はこれを呼び戻そうとした。が、盛政は戦勝ゐおしたこともあって、これに従わなかった。しかし、再三の勝家の命令と、秀吉が木之本に到着したことを察して、退却をはじめた。しかし、この段階では敗走ではない。しかし、秀吉はこれを好機として攻撃を開始した。まず、柴田勝政の勢が秀吉軍に打ち破られて、盛政の軍に逃げ込んだ。盛政は退いてきた勝政の手勢とを合わせて、追撃してくる秀吉勢を迎え撃った。
 ところが、背後に控えていた前田利家の軍勢が退却を始めたのである。明かに裏切りであった。しかし、これを見た柴田軍には動揺が走り、戦場を離脱するものが続出した。勝家は本陣を狐塚まで前進させていたが、脱走者の続出によって兵力が激減するなか、堀秀政らの攻撃を受けた。さらに秀吉側の兵は数を増してきた。

賎ヶ岳にて討死す

 ここに至って、勝家も劣勢を見極め、側近の諌言に従い、北ノ庄城へ退去することを決した。このとき、家照は勝家に馬印を請い、勝家の身代わりとなって討死する許しを得た。勝家の落ちていくのを見届けた家照は兄の茂左衛門、弟の庄兵衛をはじめ、名を惜しむ柴田家の士ら二百人とともにむらがる秀吉勢と戦った。家照には筒井順慶の家臣島左近が槍を付けたが、そのあまりに若いことから影武者と見破り、「名を名乗れ」と迫ったが、家照はあくまで勝家と名乗って討死を遂げた。享年二十五歳。また同時に、兄茂左衛門、弟の庄兵衛ら柴田方の兵は一兵あまさず討死した。
 戦後、秀吉は毛受家照の忠節に感じ入って、その遺族を厚遇したと伝えられる。家照には、賤ケ岳合戦の年に生まれた幼子がいたようで、孫・信友の代に尾張徳川氏の家臣となったと系図に記されている。



■参考略系図
・「尾張諸家譜」の毛受(鵜飼)系図を掲載したが、世代数と年代的にうなずけない点が多い。  
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧