播磨の守護であった赤松氏の一族。播磨大山館を本拠とする。赤松氏初代季房の曽孫宇野則景の長子景能のとき、初めて間島氏を称したと伝えられる。 南北朝期は、則村の長子で摂津守護の範資・光範父子に属して重用される。文和三年(1354)には、光範の守護代として間島安芸守範清が東寺領垂水庄の打ち渡しを行っており、延文元年にも春日社領榎坂郷の濫妨人を追放するなど、摂津一国の国務に携わっていたことが知られる。翌々年には有馬郡野鞍庄の城郭を破却し、その二年後、大覚寺領富島庄の打ち渡しを行ったが、その後、守護代を更迭されたとみえて摂津から姿を消している。 以後、しばらく動向が明かではないが、嘉吉の変では、赤松満祐の激に応じて播磨坂本城に籠城した赤松宗徒八十八騎の一つとしてその名がみえ、幕府軍来攻への備えには、赤松教康指揮下に浦上氏らと須磨明石口の守りに加わっている。しかし、この守備軍は幕府方の有馬持家の攻撃に際し、同士討ちを演じ、大敗北を喫して坂本城に逃げ戻っている。 応仁の乱から戦国期にかけて再び動静を欠くが、播磨大山の本貫地には、一族の誰かが拠っていたものと推定される。戦国末期に大山館主として左京亮氏常がみえ、その子の彦太郎氏勝は、秀吉の播磨入国のさいに臣従したものと推定され、天正八年(1580)明石郡井川庄内福中城主となった。 天正十一年、淡路岩屋城番、小牧の役に従軍したあと、京都方広寺大仏造営奉行となる。一万石を領したが、関ヶ原の合戦には西軍に属し没落した。 ■参考略系図 |