南北朝期から室町期の各国守護は、将軍のもち全国支配権を分与され、諸種の公権を背景に分国を統治した。そして、管国内に広汎に派生した国人を被官化し、家臣団に編成した。守護の家臣団の中核を形勢したのは、血縁的なつながりのある一族や一門、非血縁的ながら古くから臣従した譜代の家臣であった。 伊予国の守護河野氏の場合も同様で、守護河野氏の命令を奉じ管国内にその命令を下達した、いわゆる行政的な役割を果たした奉行人がいた。河野氏の奉行人の初見は、嘉吉三年(1443)十二月付の、久万通昌・垣生通安の連署した河野氏奉行人奉書である。そして、室町期を通じて久万・垣生両氏のほかに、見目田・大西・戒能・重見・正岡・中・栗上の九氏が知られている。 重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。南北朝末期に得能越後守が見え、それが年代的にみて重見氏の祖といわれる通宗と思われる。ただし、重見氏を称したのは通宗の子通勝からという。 重見氏の発祥地は、伊予国吉岡荘内の高知の八倉山城の地とする説と、浮穴郡の矢取重見明神の鎮座する重見津であろうとする説がある。さらに、伊予郡神崎荘内の八倉郷にいて、のちに風早郡日高城に移ったとする説もある。いまとなっては、いずれとも確定しがたい。 乱世を生きる 南北朝期から戦国期に重見氏は、桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡に分散していたとみられる。発祥地とされている前記三地域のほかに浮穴郡久万山東川郷にある河崎神社棟札、文明十八年十月の宗昌寺寺領坪村に見える「重見殿分」などの存在がそれを示している。 そのうち風早郡の重見氏は、日高山城主であった。応仁の乱の直前、河野教通は同族の通春と抗争していたが、康正二年(1456)、敗れて菊万荘に没落した。そのとき、重見通実は教通に随行している。しかし、通実はこれより先、宝徳三年(1451)八月の書状では、幕府の支援する教通方に加わるのが遅れた理由を述べ、それは通春に従えとの幕命があったからだと述べている。事実、幕府管領細川勝元が勝手に御教書を発し、通春を支援したことはあった。ただし、これは国人重見氏の去従が定かでなかったことを物語るものであろう。 応仁の乱後の文明年間、重見通昭は、国人の所領安堵・寺領安堵を河野氏の奉書だけでなくみずからの安堵状として発行しているこtから、相当な勢力をもっていたことが知られる。 ところで、重見一族のなかには、応仁の乱前後における河野氏の内訌に際して、ある時は教通に従い、ある時には通春に従うものなどがいた。河野通直(教通)じゃ。三島社大祝にあてて「此方の敵、重見近江守、森山・大野、その他数十人討ち取り候」と報告しており、浮穴・伊予郡の山岳地帯に勢力を振るう大野・森山氏とともに、重見氏は勢力強大な国人であり、その向背は守護河野氏の分国支配を左右するものであった。 宝徳三年(1451)、河野氏の惣領教通は、同族の通春に勝利をおさめたが、それは幕府軍として伊予へ出兵した小早川竹原氏の奮戦、宇和・喜多与力衆、大野・森山氏という国人、そして、重見氏の協力があったからである。 戦乱に呑まれる 戦国期に至っても重見氏は、河野氏の宿老として重きをなした。天文十年のころ、河野通直は、三島大祝氏に対し「毎時、重見・来島・正岡に相談候て」と述べており、来島通康.正岡房実らとともに重見氏が、戦国期における河野氏の領国支配に関与していたこがわかるのである。 享禄三年(1530)、伊予石井山城主の重見通種は河野氏に背いた。しかし、河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れ周防に逃れた。弟通遠は通種に従い、討伐軍との戦いで戦死している。通種の反乱失敗後、重見氏の家督はもう一人の弟通次が継ぎ当主となった。通次は、元亀三年(1572)、三好氏との戦いに従軍。翌年、大野直之討伐軍にも従軍した。通次の子孫七郎は、元亀四年、父とともに大野直之討伐軍に従軍。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に際して小早川隆景軍に降伏した。 ところで、毛利氏の家中に通種を祖とする重見氏がいる。こちらは、河野氏の後裔とした系図を有し、得能氏からの分かれとする重見氏と比較したとき、不審な点を感じさせている。おそらく、河野氏に叛したことを憚り、そのような家伝となったものだろうか。 ■参考略系図 ・詳細系図不詳。 |