前九年の役で源頼義と戦った安倍貞任の弟黒沢尻正任の後裔と伝える。正任の子重任が伯父の小松館官照の跡を継ぎ、その子重秀は小松を称した。その頃、奥州藤原氏に属したようで、武任は源頼朝の奥州征伐に際しては藤原泰衡に与して戦死した。 後裔は、代々奥羽に住し、小松、岩手、陸奥、長井などを称し、重長のときに伊達晴宗に属した。重光は、伊達晴宗、その子輝宗に仕え、中野の乱に際しては中野宗時に与して小松館に立て籠った。その後中野は逃亡し、重光は永禄六年十一月、伊達輝宗に攻められて敵せず自殺した。 その子が黒沢重久で、父重光が自殺したとき、九歳であったという。重光は叔父の順的に守られて城を落ち、僧となって順巴と号したが、父の讐を報じんとしてのちに還俗。小松杢助と称し、二本松畠山義継に属した。しかし、義継は伊達氏に対抗し敗れて、政宗に降った。そして、政宗への執り成しを頼むために輝宗を訪れるが、成らず義継は輝宗を捕虜として二本松城に帰らんとすることがあった。この時、重久もその一行にあったが、高田の渡しにおいて政宗の銃撃を受け、義継と輝宗は銃弾に倒れた。重久は傷をい負ったが。二本松城に戻り、畠山国王丸らと籠城したが、伊達氏の攻撃によって二本松城は落城した。 畠山氏滅亡後は、会津の葦名盛重のもとに赴き、その配下となった。そして、葦名氏と伊達政宗が戦った摺上原の合戦において葦名軍の先鋒を務めて、重久は鉄砲傷を負った。合戦は葦名氏の完敗であった。 敗れた盛重は、常陸の佐竹義宣のもとに奔り、葦名氏は滅亡した。 その後、重久は関東に至り、天正十九年徳川家康に謁して、武蔵国都筑郡の内に采地を賜り、以後家康に属し、文禄の役、関ヶ原の合戦、大阪冬の陣に出陣している。子孫は徳川旗本家として存続した。 ■参考略系図 |