戦国時代の後半期に、天険の要害と豊かな山林資源を背景とする木曽谷を統轄して、近隣に覇を唱えた木曽氏がいた。木曽氏は、六条判官源為義の孫、帯刀先生義賢の二男義仲の裔にして、その譜は義仲滅亡ののち、木曽谷を逃れ、上野国沼田庄の藤原家国を頼って蟄居した義仲の三男義基の後裔であるとしている。確かに永禄八年(1565)、木曽義昌が木曽黒沢の若宮社に奉納した三十六歌仙板絵の裏銘には「願主源朝臣義昌」と墨書しているのである。 しかし、一方南北朝時代以降の木曽谷の諸社に残る在銘棟札をみると、源姓ではない藤原姓の家信・家有という、 そのころにおける木曽谷の支配権者と推測される人物の名前が残されている。そして、これらの人物は、 いずれも木曽氏関係の系図には被見しえぬ人名であることを思えば、南北朝時代以降の木曽氏を、諸記録や 系図類の多くが説くように、源姓の木曽義仲の末流と単純に考えることはできないようだ。 千村氏の軌跡 いずれにしろ、初代の家重は上野国千村郷に住して千村氏を称したという。代々木曽氏に属したようで、戦国後期の家昌は木曽義康および義昌に仕えた。しかし、木曽氏が下総国海上郡洗足郷に移されたとき、ともに下総国に移り住んだ。 家重の子良重は木曽義昌・義利に仕え、父と同じく東国にあった。慶長五年、徳川家康が上杉景勝征伐の軍を起こし、小山に陣した時、召されてはじめて家康に拝謁した。 この時、石田三成挙兵の報が聞こえ家康は江戸城に帰還後、兵を率いて上洛。秀忠は別軍を率いて中山道に発向、西を目指すことになった。この頃、木曽谷は三成方に与した石川備前が代官として治めており、良重は山村甚兵衛と同じく家康に召されて木曽に下り、出陣の道を拓くべしとの命を与えられた。ただちに山村ともに発向、木曽氏の旧臣を糾合して石川備前の守る熱川砦を落し、木曽谷が静謐になったことを昌次父子らを介して家康に言上した。 その後、信濃国妻籠城に兵を止めて、良重、山村は美濃国に打ち出すべきとの言上をして感状を受けている。そののち、山村とともに美濃国苗木・岩村両城の請取に働いた。 関ヶ原の合戦後、木曽の旧臣らに美濃国の内において一万六千二百石の地を賜わり、良重は土岐・可児・恵那郡の内において四千四百石余を知行し、可児郡久々利に住した。 慶長八年、命により信濃国の内一万石、遠江国の内千四十貫余の地を支配した。同十九年、浪合の関および木曽妻籠等の番を務めた。元和元年の大坂の陣には先手に加わり、天王寺口攻めに参加した。その後、信濃国飯田城番を務め、同五年に尾張大納言義直に付属された。 良重の子重長は、大坂両陣に従軍し、その後は父ととも尾張義直に仕えた。子孫は尾張藩士として続いた。とはいえ、重長の弟義国、二男の重堅は別家を立て、それぞれ旗本家として存続している。 ■参考略系図 |