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讃岐梶原氏
矢 筈
(桓武平氏鎌倉氏流)


 梶原氏は、桓武平氏鎌倉氏流で、相模国鎌倉郡梶原村に景久が住んだのが始まりだと言われ、坂東八平氏の一つとされる。
 梶原景久のひ孫にあたる梶原景時は、石橋山の戦いで平氏側・大庭景親の軍について戦った。この時、頼朝らが隠れている場所を見つけたがそしらぬふりをして見逃した。その後しばらくして鎌倉の頼朝の元へやって来て、御家人となった。
 景時は長子・梶原景季と共に平氏と戦い、武功を残した。梶原親子は、宇治川の合戦での景季・佐々木高綱の先陣争いや、景時と義経の不仲など、戦場でのエピソードは多く残されている。また、景時は当時の武士としては教養があり、それゆえ頼朝からの厚い信頼を得た。
 しかし、景時の仕事ぶりは、時に御家人の反感を買った。それが爆発したのが、頼朝が死んで間もない正治元年(1199)のことである。御家人の一人・結城朝光の一言から、景時は朝光に謀反の疑いありとして将軍・源頼家に讒訴した。この噂を聞いた朝光は焦り、仲の良かった御家人・三浦義村に相談をする。義村はそれを聞いて御家人を集め、景時を弾劾することにした。その数、六十六名。これには、鎌倉のほとんどの有力御家人が加わっているという大規模なものだった。
 景時は弾劾を受け、一族を連れて、領地である相模国に下った。景時らは武田氏を将軍にしようとするも、その前に追討され、討死した。一族のほとんどはこの時に討死し、景時の次子・梶原景高の子景継は再び幕府に仕えた。また景時の三男・梶原景茂の子孫は室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へも梶原一族は広がっていった。
 室町時代の淡路は、島内各地で戦乱が起こり、淡路の戦国時代といわれた。現在、島内各地に残る城跡はほとんどがこの頃に造られたものである。阿万に残っている阿万城跡もその一つで、阿万六郎宗益が築いた城だと伝えられる。
 南北朝期、足利尊氏は北朝の光明天皇を立てて、征夷大将軍に任命され、足利幕府を開いた。しかし、淡路では南朝に従うものが多く、尊氏は細川師氏に命じて淡路を攻めた。このとき、北朝方で沼島の城主梶原越後守俊景は阿万城を夜襲した。俊景は、四国で勢力を増していた三好一族と通じており、それを知った阿万の城主郷氏は、梶原氏を討とうとしたが、先に梶原氏はそれを察知し、逆に先手をとって攻めかかたものであった。
 戦いは、梶原氏の有利のうちに進み、阿万城主の郷氏は、一族の大半がすでに戦死したという知らせを受け、単騎で東方の山中にある菩提寺に逃がれて、そこで切腹して果てたという。
 讃岐梶原氏は、戦国後期の豊臣秀吉による四国征伐に抵抗し、敗れて没落した。子孫はその後も続き、明治に至ったといわれている。



■参考略系図
 
  


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