ヘッダイメージ



蒲原氏
丸の内に二つ引両*
(藤原南家工藤氏流/
清和源氏足利氏流今川氏支流)
*引両は今川氏支流蒲原氏の家紋。南家流蒲原氏の家紋は不詳。



●藤姓蒲原氏

 和名抄蒲原の項に、駿河国庵原郡の蒲原郷あり、加無波良と註す。中世蒲原御庄、蒲原庄と称せし地なり、延歴三年(784)十月紀に初見すと見えている。蒲原氏は『尊卑分脈』に入江権守清定-蒲原権守清実と載せ、『天野系図』には右馬允維清-蒲原十郎清貫と載せ、『相良系図』には船越伊豆権守家清-蒲原権守清実と見え、蒲原氏は、当国の名族にじて、保元物語官軍勢済条に「駿河には入江右馬允神原五郎」、源平盛衰記に「蒲原太郎正重、同三郎正成とある。『氏大鑑』には、蒲原氏は「藤原南家天野氏族」庵原郡蒲原郷より出ずとあり、これらの文献などから、蒲原氏は藤原南家の出であることは間違いない。
 藤原南家は不比等の子武智麿に始まり、天慶の乱(939)に平将門を討って功のあった藤原維幾、その子為憲が知られる。為憲は木工助に叙せられ遠江権守に任じ工藤大夫を称した。そして、為憲の子孫は駿河・遠江・伊豆の三国に勢力を張り、その地の豪族として栄え、以後、多くの武家が出た。蒲原氏もその一族であった。
 鎌倉幕府が成立した翌年の建久四年(1193)源頼朝が富士の裾野で巻狩をしたとき、蒲原弥五郎が参加していたことが『曽我物語』に描かれている。頼朝の死後、後鳥羽上皇が幕府を倒そうと謀った承久の乱(1221)に際しては、天野左衛門尉、狩野介入道ら駿河武士の一員として蒲原五郎が北条泰時の率いた東海道軍に属していた。
 承久の乱を経て幕府の力は朝廷を凌ぐこととなったが、蒙古襲来における御家人の活躍に対しての論功行賞は、速やかに行われなかった。また、御家人のなかで窮乏する者がふえ、幕府に対する不満が募っていった。さらに、北条政権の無能と腐敗などが重なり弱体化、このような幕府をみて後醍醐天皇が倒幕を目論んだが、ことは事前に発覚、元弘元年(1331)元弘の乱となったのである。

南朝方として行動する

 京都を脱出した後醍醐天皇が笠置山に立て篭ると、幕府は北条一門の大仏貞直を大将として討手を差し上らせた。その勢は武蔵・相模・伊豆・駿河・上野の五ケ国、二十万七千六百騎であったという。蒲原氏も入江氏とともに東海道を西上し、笠置攻めに参加した。その後、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が成立した。ところが、その時代錯誤な政治に足利尊氏が異を唱え、新政に反乱を起こしたのである。しかし、尊氏は敗れて九州に落ちていった。
 延元元年(1336)、足利尊氏が京都を回復し、後醍醐天皇は吉野の行宮に移った。一方、尊氏は光明天皇を即位させたことから、世は南北朝の内乱となって行った。延元二年、宗良親王を奉じて井伊介道政が遠江国で南朝方のために活躍するや、入江・狩野・蒲原の一族らは駿河の南朝方の中心勢力となって、足利の一族今川氏と戦うこととなる。この年、安部城の狩野貞長は入江・蒲原一族とともに、今川範国と戦って敗れ貞長は内牧城へと移った。吉野においても後醍醐天皇が崩御、後村上天皇が即位された。
 井伊谷城の宗良親王は今川勢の攻勢を支えきれず、井伊谷城から大平城へと移ったが、ここも支えられず狩野貞長の拠る駿河国内牧城に移った。狩野介一族と、入江・蒲原の一族は南朝方の挽回をはかったが、守護今川氏の勢力と対抗する力もなく、新たに宮方に付くものもないままに、宗良親王は貞和元年(1345)甲斐・信濃へと向かわれた。観応二年(1351)足利尊氏・直義兄弟が不和となり、十二月薩垂峠に戦った。そのすきに、遠江・駿河の南朝方が蜂起し、蒲原河原に合戦。その後も尊氏方と宮方の小競り合いがあったが、駿河工藤一族は没落していったようで、歴史から消え、駿河は足利一門の守護大名今川氏の治めるところとなった。
 その後、応永二十三年(1416)関東管領持氏が執事上杉禅秀と事を構え追われて駿河にいたり、国内に命令を発して兵を招いた。これに、駿河目代庵原英盛をはじめ、興津・由井・蒲原・入江…らが応えた、と『続太平記』にあるが、この蒲原氏は藤原南家から分かれた蒲原氏と同族の者であったのだろうか。そして、この頃になると今川範国の二男氏兼を祖とする蒲原氏が、藤原南家蒲原氏にとって変わってくるのである。



●源姓蒲原氏

 源氏系蒲原氏の祖氏兼は、建武三年(1336)吉良義満から三河須美保政所職をうけ、同五年には吉良良義から三河国幡豆郡吉良西条、今川、一色のうちで、今川次郎常氏と父今川五郎範国の旧領を宛行われ、所領としていた。のち応安三年(1370)管領細川頼之に従い、河州において戦功があり、将軍義満より遠州山梨郷を賜り、越後守護代に補された。この年から兄貞世が九州探題職となり、氏兼も九州に赴き、兄を援けて九州南朝方の菊池勢と戦い、応安七年京都に帰陣した。
 氏兼の二男頼春が家督を相続し、蒲原氏の初代となった。頼春の子氏頼は永亨四年(1432)将軍義教が関東公方持氏に対して一大示威運動を展開した「富士遊覧」に従って駿河に下った。このとき、氏頼は義教の警固を務め、のちに将軍はその功に報いて駿州蒲原城と蒲原庄を氏頼に賜り、播磨守に任じたのである。その折鎌倉に騒動あれば、蒲原の城に拠り防衛のつとめをはたせと、三葉一房の葡萄を賜った。このとき、氏頼は今川を改め蒲原播磨守を名乗り、葡萄を衣服の紋に付け始めたと伝える。
 永享十一年(1438)、永亨の乱が起こると蒲原氏頼は、今川範忠の手に属して、関東管領持氏の軍兵と戦い、軍功を励んだ。嘉吉元年(1441)の結城合戦には今川範政の下で一千五百余の兵を率いて、結城氏朝、春王・安王の立て篭る結城城を攻めた。この時、氏頼は茜根染の垢取の馬標を押し立て、従兵の笠験にも垢取を付けさせたという。
 応仁元年(1467)、世にいう応仁・文明の乱が勃発し、今川義忠は将軍義政の御座所警固のため駿州の兵を率いて上洛した。蒲原貞氏は今川義忠の手に属し、室町御所を百余日敬固、中務丞に任じられた。延徳年中(1489〜91)の茶々丸の乱には、貞氏の子満氏が伊勢新九郎長氏、葛山長嘉とともに千余の兵をもって伊豆堀越に押し寄せ、茶々丸を討った。大永七年(1527)阿波の三好氏が京都に攻め入った。そのため足利義晴は京都を避け、近江朽木谷の朽木稙綱の館に入ったが、その折満氏も将軍に供奉している。その後、天文四年(1535)将軍は京都に帰洛、このとき、満氏も共に京都に戻ったが、暇をとって遠江の所領に帰り、蒲原城には長男の氏徳を入れている。

戦国時代を生きる

 このように、蒲原氏は早くより足利将軍家の御家人として代々将軍家に仕え、京に在住した。しかし、応仁の乱に巻き込まれ、数々の戦闘に参加し、天文四年(1535)、駿河の所領に戻った。そして、それを機に守護今川氏に一門衆として仕え、氏徳は富士川の西岸蒲原城に入ったのである。
 天文五年満氏が没すると、氏徳は家督および代々の所領八百貫の地を相続した。同十八年(1548)今川義元は三州勢の織田勢を攻め、氏徳は駿河勢の大将として三州安祥城を攻め、軍功を立てた。
 永禄三年(1560)、義元は兵を起こし、尾張国の織田信長を攻め、さらに上洛を狙った。五月、義元は二万五千の兵を率い、駿府を出発。蒲原氏徳も手勢を率い、尾州へ発向、敵方城砦を劇破した。そして、尾州に入り、折からの雷雨を避けて義元が桶狭間に陣を布いている所へ、織田勢が駆け入り義元は討ち果たされた。総大将義元の討死を聞き、今川勢はまったく足並が乱れ、氏徳をはじめ、久野氏忠・三浦義就・庵原元政らも討死した。
 永禄十一年(1569)、甲斐の武田信玄が三万五千の兵で駿河に侵攻してきた。氏真はこれに対して、庵原忠致・同忠胤を先陣として、氏真も二万五千人を従えて出陣した。この戦に今川一族、老臣ら二十一頭、総勢三万四千余人が戦陣に加わった。ところが、この二十一頭より変心者が出、信玄に密通する者も相次ぎ、氏真は対陣かなわずろして、駿府に戻り籠城した。武田軍は江尻を越え、宇和原まで迫った。氏真は、最後の一戦を交えようと計ったが、味方する者はなく、ついに近臣五十余騎を従えて、砥城の山城に落ち延びた。
 このとき、蒲原徳兼も代々の居城を離れ、氏真を砥城に送り、自身は遠州の所領山梨に篭居した。その後、蒲原城は北条氏の手に移ったが、武田信玄の攻撃を受けて、ついには武田の手に落ちた。その頃、遠州掛川城は朝比奈備中守が守り、徳川氏の攻撃にも降らず城を固めていた。そこで氏真は砥城を出て掛川城に入った。蒲原徳兼も山梨を出て、氏真に従って掛川城に籠城した。

蒲原氏のその後

 永禄十二年正月、徳川勢は掛川城を総攻撃してきた。朝比奈・蒲原以下の将士は防戦に努めたが、ついに五月、和睦を申し出、掛川城は開城し氏真は小田原に退いた。そして、遠州は徳川氏の治下に入った。このとき以来、朝比奈泰能、蒲原徳兼以下浪々の身となる。以後、蒲原氏は武士を捨て、野に下り子孫は連綿と続いて現代に至っているという。

 以上、蒲原氏の歴史を追ってきたが、藤原南家から出た蒲原氏は室町後期から鎌倉時代を生き抜いた。しかし、南北朝の内乱期に今川氏と戦って没落した。そして、今川氏の分流が蒲原氏を名乗り、室町期から戦国時代を生き抜いたが、戦国末期に没落。武家としての蒲原氏は命脈を絶ったといえよう。



■参考略系図
・今川氏支族蒲原氏の系図を掲載。南家流蒲原氏の系図は不詳。【→南家流蒲原氏参考系図】   
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧