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金丸氏
九 曜
(清和源氏武田氏流)


 カナマルともよみ、清和源氏義光流武田氏族。甲斐の金丸氏は、武田刑部少輔信重の子光重が、途絶えていた金丸氏を再興して金丸右衛門尉を称したことに始まる。『甲斐国志』は、光重が鞠部氏の廃跡を再興して金丸氏を称したという。
 その後、光重の養子一色藤次が跡を継ぎ伊賀守を名乗り、その子金丸若狭守虎嗣と続く。虎嗣は天文十五年の信濃戸石城攻めのとき検使をつとめている。虎嗣の子金丸筑前守虎義は使番十二人衆より登用され士隊将の中老といわれ、長男平三郎昌直は奥近習衆をつとめた。しかし、永禄三年三月横死したため四男の助六郎定光が家を継いだ。
 虎義は子沢山で、二男平八郎昌次・五男惣三昌忠・六男惣八郎正直は土屋を、三男左衛門佐昌詮・七男源三親久は秋山を称して分派した。
 金丸助六郎定光は武士隊将となり、天正十年三月、山梨郡田野で勝頼に殉死した。その子の定信は武田氏滅亡ののち、幕府に謁して御朱印を賜った。
 なお、永禄起請文には、金丸平八郎昌次あてに提出されたものが四通あり、このことから金丸氏は信玄側近として特別な地位にあったのではないかと考えられている。


■参考略系図


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