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大井氏
割り菱
(清和源氏武田氏流)


 地名は全国に広く分布し、諸流もきわめて多い。信濃の清和源氏小笠原氏族、相模の桓武平氏三浦氏族、武蔵の村山党などがあり、甲斐の氏は清和源氏義光流武田氏族である。
 古代『和名抄』巨摩郡九郷のひとつに大井郷があり、中世の大井荘はその地に成立した荘園とみられる。なお『続日本紀』延暦八年六月条によれば、山梨郡の鞠部らが本姓を改めて大井姓を名乗ったというのは、地名によったとみられるが、その地名は大井郷ではなく、山梨郡の延喜式内社大井俣神社付近にあったという大井の地名によったともいう。
 大井荘の開発領主は不祥で、鎌倉末期鰍沢町の蓮華寺境内を居館とした橘姓大井氏の存在が知られるが、橘六─光房のわずか二代で姿を消している。のち南北朝期に武田信武の子信明が入って大井氏を称した。
 戦国期の信達─信業父子の頃には、有力な国人領主に成長し、永正十二年、櫛形町の上野城に攻め寄せた武田信虎を破り、駿河の今川氏親と結んで信虎に対抗したが、同十四年和睦した。その後、今井・栗原氏らと再び謀叛を起し、同十七年には敗れて信虎の家臣となった。信達の娘は信虎に嫁して晴信・信繁・信廉を生んだ。大井夫人がその人である。
 『寛政譜』によれば、信業の弟虎昌も信玄・勝頼に仕え、天正七年十二月八十一歳で没した。長命である。  その子昌次は、信玄・勝頼に仕え、天正十年秋、武田氏没落ののち、徳川家康に召されて帰属し、遠州秋葉山にて連署の起請文を奉り、駿河の江尻で家康に謁した。のち、大番となり、武蔵秩父郡内に三百石の知行を与えられた。
 昌次のあとは子の昌義が継ぎ、慶長十二年七月初めて将軍秀忠に見えた。最初から秀忠の官僚であった。のちに大番となる。その後、駿河大納言忠長附属となり、甲州巨摩郡に知行を与えられたが、忠長の没落により署士となったが、召し返されてまた大番となった。子孫は中級徳川旗本として続いた。


■参考略系図


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