曾禰・曾弥とも書く。清和源氏武田氏の分かれで、武田冠者義清の子逸見冠者清光の子厳尊が曾禰禅師となり、曾禰氏の祖になったと伝える。八代郡曾禰が曾禰氏の拠点の一つとみられるが屋敷跡などは不詳である。『甲斐国志』では、古代曾禰連が拠ったところで、甲斐源氏はその跡を興して曾禰氏を称するようになったという。 建久元年(1190)十月、源頼朝上洛の際の随兵に曾禰太郎があり厳尊の長男遠頼のことともいう。その後の活動は詳らかではないが、『一蓮寺過去帳』には文明十四年(1482)の曾禰弥五郎、同十七年の曾禰下野守逆修などとみえる。また、八代郡上曾根の日枝神社(山王権現)の棟札には、応永六年(1399)に源丹波守長正、享徳三年(1454)に源四郎右衛門経家がみえ、「奉造栄延年衆」とあり日枝神社延年のための舞台建立に尽くしたことが知られる。 下って天文十年(1541)の日枝神社棟札には大檀那として、源中務大輔虎長・源下野守経家・源左衛門尉長元の名が記され、同十七年の棟札にも虎長、孫次郎勝長・孫助虎吉が大檀那としてみえている。 戦国時代、将軍や大名は功のあった家臣、あるいは元服などの祝いに諱(本名)の一字を与えるということが多かった。これを「偏諱(へんき)を賜う」というが、武田氏の場合、信昌・信縄の時代から偏諱がみられる。曽根三河守昌長・同三河守縄長らは信昌・信縄から、曽根中務大輔虎長・同孫助虎吉・同九郎左衛門虎盛などは、信虎から偏諱を与えられたものと思われる。これらのことは、曽根氏が代々の武田氏当主からあつい信頼を寄せられていたことを示したものといえよう。とくに曽根昌長は武田信縄・信虎時代に代官として活躍したことが知られている。 信虎時代になると曽根出羽守・同大学助がみえ、信玄(晴信)・勝頼時代になると曽根下野守昌世が活躍した。昌世ははじめ孫次郎といい、信玄の小姓から騎馬十五騎・足軽三十人をあずかる足軽大将となって内匠助と改め、永禄十二年(1569)の相模三馬合戦などで多くの戦功を立てた。勝頼の代になると下野守と改め駿河興国寺城の守将となった。天正十年(1582)武田氏が滅亡すると、織田信長に降り、ついで徳川家康に降った。「天正壬午起請文」には親類衆士大将になっている。のちに、会津の蒲生氏郷に仕えた。 信玄の奥近習には、ほかに曽根与市之助がおり、百足捺物の衆も務めた。また足軽大将には、ほかに曽根七郎兵衛もみえ上野石倉城を守った。「永禄起請文」には、かつて信虎・信玄に仕えた曽根三河守昌長の名が、安中左近大夫らの起請文あて先としてみえ、永禄起請文奉行職にあった。そのほか、『甲斐国志』には多くの曽根(曾禰・曾根)姓の人物がみえる。 甲斐国八代郡曾禰を発祥とする曽根氏だが、多くの枝葉に分かれ、武田氏に仕えたそれぞれの家の関係を系譜的に明らかにすることは難しい。とはいえ、戦国大名武田氏においてかなり有力な家臣であったことは間違いない。ともあれ、先祖を同じくする諸流の曽根氏がいたとするばかりだ。 ■参考略系図 |
●異説、曽根氏系図 |