清和源氏義光流武田氏族。武田小五郎信政の三男に民部少輔信盛があり、駒井・岩崎氏の祖になったとされる。また、信盛は巨摩郡駒井郷を領したことから駒井を称するようになったともいう。駒井はいまの北巨摩郡韮崎の北方、勝頼の築いた新府城はその近くである。 駒井政時に至り、長男の信為・次男政武が武田信虎・信玄に仕えたとある。信玄・勝頼期の駒井氏は、積翠寺城の城番をつとめた兄信為の系と弟政武の系が主流であったとみられる。信為ののち勝英およびその子昌長は積翠寺城を守り、武田氏滅亡後は徳川家康に帰属し、本領を安堵された。 以後、長久手合戦・小田原陣岩櫃攻めに功があり、小田原落城後武、蔵において八百七十石の知行を賜り、秀忠附となり、慶長十年信州松本城を守った。子の昌保は、慶長八年十六歳のとき秀忠に見え、家督相続後御書院番に列し、大坂の陣に従い功があり、後代には知行二千三百石となった。 一方、政武は高白斎と号し『高白斎記』を著したことで有名であり、信玄側近の有力なブレーンとして外交面で手腕を発揮したことが知られている。政武の子昌直は右京進を称し、天正起請文に武田親類衆にみえ、駒井右京進同心として十一名があがっている。また、昌直は近習五十騎頭・士大将・駿河深沢城代で譜代家老衆の一人であり、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、積水寺城番をつとめた。 なお、昌直は天正十年八月、家康に帰属した武田旧臣895名の代表として、遠江秋葉神社で天正起請文をとりまとめて提出した。天正起請文には、駒井宮内大夫・駒井兵部助・駒井兵部などの駒井氏の名がみえる。 ■参考略系図 |