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今井氏
●丸に花菱
●清和源氏義光流武田氏族  
 


 今井は古い居住地に対する新しい住居地を意味する地名で、今居、新居に同じである。名字としての今井は、信濃発祥の中原氏流、甲斐の清和源氏義光流武田氏族、武蔵の児玉党、上野の清和源氏新田氏流、清和源氏南部氏流、近江の佐々木氏流、諏訪氏流などの今井氏がある。
 ここに取り上げた武田氏族今井氏は、応永二十三年(1412)の「上杉禅秀の乱」に禅秀方に味方して敗死した甲斐守護武田信満の子左馬助信景が、山梨郡上今井に住して今井孫六を称したのに始まった(一説に、武田氏流逸見氏の流れとするものもある)。信景の子信経は、父信景の遺領とともに伯父江草兵庫助信泰の遺領をも併せて継承したため江草信泰の官途である兵庫助を称した。以後、甲斐の国人領主に成長して、武田宗家に対抗する存在になるのである。

甲斐の有力国人に成長

 禅秀の乱後、武田一族は離散状態となり、甲斐国内は逸見氏ら国人領主が台頭し内乱状態が続いた。やがて、武田信元が守護として復活するが、守護武田氏の権力はまったく地に落ちていた。以後、守護武田氏は国人勢力、さらには守護代の跡部氏との抗争を繰り返し、どうにか対抗勢力を制圧したのは十五世紀後半であった。
 ところが、今度は武田信昌と信縄の父子の争いがおこり、信昌の死後は家督をめぐって信縄と弟の油川信恵との争いが繰り返された。「油川氏の乱」といわれるこの家督争いは、国内の国人層を二分し、甲斐国を一気に戦国時代に突入させた。明応七年(1498)、両者の和睦がなったものの、永正四年(1507)、信縄のあとを若年の信虎が継ぐとふたたびび対立抗争が始まった。このような甲斐国内の争乱を衝いて、小田原北条氏、駿河今川氏など外敵の侵攻もあり、甲斐国内は混乱を極めた。
 武田氏一族の内訌に際して、信恵方には実弟の岩手縄美、栗原・工藤・上条氏、そして郡内小山田氏らが加担し、信虎には武田惣領家の被官である曾根・甘利・駒井・小田切氏、さらに萩原・金丸・板垣・飯富・浅利氏らの中小国人領主が味方していた。そして、武田一族で有力国人でもあった大井氏・穴山氏・今井氏らは、武田惣領家寄りの姿勢を示していた。
 このころの今井氏は、信経の子信慶・信乂兄弟の時代であった。兄の信乂は上今井を離れ守護武田家に仕え、明応三年(1494)の武田信縄と油川信恵との合戦において討死した。信乂の嫡男信房も、永正十二年(1515)、信虎の大井信達攻めに出陣して討死した。このように信乂系今井氏は、守護武田家と行動をともにし、信房の弟信甫・虎甫、信甫の子信良らはいずれも信虎・信玄に仕えて奉行などに登用されて活躍した。一方信乂の弟信慶は、上今井・巨摩郡江草にとどまり、その子信是は江草郷内といわれる浦城に移って浦殿と呼ばれ、その子信元とともに信虎にたびたび反抗した。
・今井氏の居城─獅子吼城

武田信虎と対立

 さて、十五世紀から十六世紀のはじめにかけて、甲斐国内において守護不入権を振りかざす実力者は都留郡守護を自任していた小山田氏であり、大井氏、穴山氏、そして今井氏らであった。永正五年(1508)、おりからの暴風雨のなか信虎は叔父油川氏の居城である勝山城を襲撃、ついに油川信恵・信貞父子を討ち取った。かくして、抗争を克服した信虎は郡内小山田氏と和睦し、その他領内の国人層の被官化を進めていったのである。
 こうして、着々と武田惣領家の権力を確立する信虎に対し、有力国人である大井氏が対抗姿勢をあらわにするようになった。大井氏は駿河の今川氏親の支援をたのみ、永正十二年、武田氏と大井氏の抗争が始まるのである。この情勢に際して、今井氏は栗原氏らとともに大井氏に加担して信虎に対抗した。甲斐統一を目指す信虎にしてみれば、この大井一党の反抗を制圧するかしないかが最大の正念場となったのである。
 永正十六年、浦(今井)兵庫助が信虎に抵抗を示しているが、この兵庫助は信是である。今井信是・信元父子は、享禄三年(1530)、武田信虎が後北条氏との対立を有利に進めようとして扇谷上杉朝興と結んだことに反発し、信虎への反抗的姿勢を強めた。今井氏にしてみれば、落ち目の扇谷上杉氏と結ぶ信虎の政策に不満を感じたようで、翌享禄四年一月、飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御岳に立て籠もった。
 これに大井信業・栗原氏らが加担し、さらに、諏訪碧雲斎頼満にも援軍を求めたため大規模な争乱に発展した。諏訪軍は信虎が下社牢人衆を集めて立て籠もっていた笹尾塁を攻略し、さらに軍を進めた。しかし、二月二日の合戦で大井信業、今井備州らが戦死し、さらに三月三日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら八百余人が戦死し反信虎軍は壊滅的打撃を被った。
 なおも今井信元は抵抗を続けたが、天文元年(1532)九月に本拠地の獅子吼城を開城、ついに信虎の軍門に降った。『妙法寺記』にも、天文元年(1532)九月、「浦ノ信本武田殿ニ敵ヲ被食候」とみえ「終二浦信本劣被食候而屋形へ降参申候。去間城ヲ屋形へ渡シ申候而、ヒサシタニ御ツメ被食候云々」とある。信本は信是の子信元であり、浦(今井)氏の武田氏への抵抗はこれが最後となった。以後、今井宗家も武田氏の家臣に列らなり、信虎による甲斐国内統一が完成したのであった。

今井氏のその後

 武田氏に仕えたのちの今井氏は、信元の甥にあたる信昌が旗本武者奉行をつとめ、子の信俊は使番十二人衆より足軽大将となった。信俊は永禄十年(1567)、甲・信・上野の諸将士が信玄に起請文を提出し、生島足島神社に納めた「永禄起請文」のなかにも見えている。その後、駿河田中城代となって戦功があったが、武田滅亡後は徳川家康に召されて帰属し、文禄四年(1595)七十五歳で没した。
 その子昌俊は、高尾伊賀守某の養子となったので、今井氏を高尾氏と改めたという。あるいは、これとはあべこべで、昌俊は高尾伊賀守の子であったが今井信俊の養子となり、信玄・勝頼に仕え、武田氏没落後家康に仕えた。実父伊賀守は勝頼に殉死したことで高尾家の後継者が絶えたため、昌俊は家康に請うて実家の高尾氏を称することになったのだともいわれている。その後、昌俊は家康に仕えて長久手の合戦にも出陣し武功をあらわしたが三十八歳で没したという。
 昌俊の子嘉文は、文禄二年(1593)家康に見え、慶長二年(1597)秀忠の小姓となり、同五年信州上田城攻めに供奉したが、のちに勘気を蒙った。十九年に至り、大坂冬の陣に松平周防守康重に属して戦功をあげ、元和二年(1616)召し返され、夏の陣にも功を立てた。戦後、甲州八代郡内の本領を与えられ、以降、高尾氏を称して徳川旗本となった。・2006年06月18日

●今井氏の居城獅子吼城のページ (埋もれた古城さん)


■参考略系図
 


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