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初鹿野氏
丸に花菱
(加藤次景廉末流)


 『武田系図』に、武田信時の子与次政頼初鹿の祖とみえる。『寛政譜』では、武田信武の四男薩摩守公信が初鹿を称し、その子源五郎某は武田信玄に仕えたとし、源五郎が川中島の戦で戦死したのち、加藤駿河守の六男が名跡を継ぎ、野の字を加えて初鹿野を称したとしている。
 『妙法寺記』には、天文十七年信濃上田原合戦の戦死者に初鹿根伝右衛門がある。
 初鹿源五郎は十六歳から武名を挙げていたが、永録三年北条氏康加勢のため小田原城に派遣され、翌年、川中島の戦で二十八歳で討死した。その跡を加藤駿河守信邦の子加藤弥五郎が継いで初鹿野伝右衛門と名乗り、武田家臣としては土屋惣蔵・小山田八左衛門と並び重用され、逸話も多い。
 勝頼の滅亡の最後まで仕えたが、のち徳川家康の麾下に入り、関東移封のとき七百石の地が与えられ、 小田原・大坂の陣以下の合戦で使番などをつとめ、寛永元年八十一歳で没した。その子には、尾張徳川家、 次いで幕府に仕えた勘解由のほか、武田家臣として諸国使者衆に存喜がいる。


■参考略系図


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