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石黒氏
丸に石文字*
(利仁流藤原氏/砺波臣後裔)
*「昇る雲」紋も使用したという。


 利仁流藤原氏とされている。石黒氏の系譜は諸本あり、それぞれに特徴的ではあるが、いずれもその出自を源平合戦に活躍した石黒光弘に結び付けられている。「越中石黒系図」は、孝元天皇を始祖とし、古代の豪族利波氏に連なるとともに、系図に載る人物に関しての詳細な記述がなされている。
 『源平盛衰記』には「越中国には野尻、河上、石黒党」とあり、また福光城にあった「石黒太郎光弘」が木曽義仲に属しており、のち子孫は七流に分派したことが記されている。石黒氏はそのほか『吾妻鏡』『平家物語』『承久記』などにも散見される。
 『平家物語』によれば、寿永二年石黒光弘は倶利伽羅合戦の勝利に際して尽力したという。同氏は古代の砺波臣の流れをくみ、平安末期には加賀の林氏との姻戚関係を背景として、藤原氏を名乗り、福光周辺にあった石黒庄を名字の地とし、石黒太郎光弘は福光館を本拠としたという。
 南北朝内乱期には、石黒左近大夫成行が宮方に属していたことが知られている。また、興国三年の冬には、南朝の宗良親王が石黒氏の館に赴いている。
 戦国期には山本に石黒太郎光秀の次男宗五郎が拠っていた。また、木舟城にも石黒氏が拠っていたが、天正二年七月に上杉謙信によって攻め落とされている。
 『信長公記』によれば、天正九年七月に「越中国木舟城主石黒左近、家老石黒与左衛門……一門三十騎ばかり上国。佐和山にて惟五郎左衛門生害の儀申し付けらるべきの処に、長浜まで参り、……石黒左近町屋にこれあるを取り籠め、屋の内にて歴々十七人生害候。惟住者も。能者二、三人討死候」と見え、石黒氏一門は織田信長に滅ぼされている。
 江戸時代の加賀藩前田氏の家臣のなかに、石黒氏の名が多く散見している。その多くが「蛇の目」紋を使用していることが『加賀藩侍帳』によって知ることができる。



■参考略系図  
  


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