ヘッダイメージ



井上氏
黒餅に八鷹羽
(清和源氏井上氏流/安倍氏)


 徳川大名の井上氏の祖清秀は、三河発祥の井上氏という。すなわち、安倍倉橋麿の裔、三河国人安倍定吉の子清秀が、義父で源満実(井上を号す)十八世の孫と云われる井上清宗の氏を冒したとされる。
 『藩翰譜』をみると「主計頭源正就は、半右衛門尉清秀の三男なり。清秀誠は安倍大蔵少輔定吉の子とぞ聞こえける、定吉の家の娘懐妊の事ありて後、井上半右衛門尉某の家に嫁して男子を生む。これ即ち清秀なり。今、井上の子孫鷹の羽を紋とする事、これ安倍の家紋たればなり。清秀成人の後に大須賀五郎左衛門尉康高の手に属す、安倍大蔵少輔が贈大納言に忠を尽くせし事は、大久保物語、家忠日記増補、阿部四郎兵衛入道記などに詳なり、合わせ考うべし。又、井上は河内守頼信朝臣の三男井上掃部助頼季の後なりと云う」とある。
 清秀の三男正就は、板倉重宗、永井尚政とともに「秀忠近侍の三臣」といわれた。元和元年叙爵して主計頭と称し、加増を得て一万石の大名となり、小姓組番頭に昇進した。大坂夏の陣の直前の三月晦日将軍秀忠の使者として、駿府城の家康と密議するほど、機務にかかわっている。また元和八年、本多正純が改易された有名な「宇都宮釣天井事件」のときも、将軍宿舎を精査した正就が生き証人として重要な役割を果たしたようだ。この功労によるのであろうか正就はこの年連署に列し、武蔵・下野・近江国および遠江国で五万二千石を賜り、横須賀城主となった。以後、幕政の枢機に加わった。
 しかし、寛永五年(1628)、江戸城西の丸の廊下で、目付豊島信満に「遺恨あるよし」と不意に刺殺された。遺恨とは正就の息子と大坂町奉行島田直時の娘との縁談を豊島が進めていた時、正就が上意の名のもとに破談したことによるとされる。
 正就のあとは嫡子の正利が継ぎ、代々封を継いで明治維新に至っている。



■参考略系図  
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧