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奥山氏
丸に木瓜
(藤原北家井伊氏流)
*幕紋は剣酢漿草とあり「静岡の名字」には「六角の内橘」とも出ている。


 奥山氏は、藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥した。すなわち、井伊盛直の子俊直は赤佐氏を称し、その曾孫朝清が初めて奥山を称して奥山氏の祖となった。
 南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。そして、建武三年(1336)奥山城に宗良親王を迎え、至徳元年(1384)には後醍醐天皇の皇子円明大師を招いて奥山方広寺を開基した。朝藤の二男が定則で、井伊氏とともに南朝方に尽くし、延元三年、久頭郷城を築き、尹良親王に供奉した。

乱世を生きる

 定則の孫能登守定之には四人の男子があり、嫡男の貞益は今川氏に属して久頭郷城主を継いだが、永禄十二年(1569)信濃遠山氏に攻められ落城し討死した。二男の定茂は水巻城主、三男定吉は大洞若子城主、四男定友は小川城主であった。しかし、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。
 元亀三年(1572)十月、甲斐の武田信玄の大軍は、信濃と遠江の国境を越し、越えたすぐのところが奥山氏の勢力圏であった。武田氏は犬居城の天野氏を道案内として遠江に侵攻してきたが、奥山氏はこの天野氏と密接な関係にあったことから、定吉の子吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属するようになった。
 そして、信玄より感状をもらい、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われた。もっとも、元亀三年の時点では、まだ遠江が武田領に組み込まれていたわけではなく、ある意味では約束手形のようなものであった。
 とはいえ、この結果奥山氏がかなり広大な土地を支配するようになったことはうかがえる。そして、奥山吉兼は遠江における有力な在地領主であったことも間違いない。もっとも、奥山吉兼の勢力は長くは続かなかった。信玄が死に、今川氏の勢力が衰え、それに代わって次第に力を伸ばしてきた家康の勢力が拡大するにつれ、武田氏の支援を得ていた奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になってきたのであった。
 その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、有定の孫重定は、相月村に住み大阪の陣に参加し、のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、子孫は代々名主を務めた。小川城主定友の子友久は小川城主を継ぎ、永禄十二年(1569)、徳川家康より本領安堵され、子孫は井伊氏に仕えた。



■参考略系図
・赤佐俊直から奥山定則までの世代が若干多いのは、兄弟相続などがあったものか。  
  


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