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本堂氏
八ついしぶみ/笹竜胆
(伝清和源氏為義流)


 本堂氏は、清和源氏為義流と伝えられ、陸奥国和賀郡に移住していた源忠頼の三男忠朝が、本堂に土着したのに始まるといわれる。
 とはいえ、和賀基義が足利尊氏から山本郡内安本郷・阿条字郷・雲志賀里郷を勲功の賞として宛行われたのは観応三年のこと。和賀氏がこの地と関係を結ぶのはこれ以降で、本堂氏は和賀氏の庶流として、室町初期頃に本堂に移ったものと推定される。したがって、頼朝落胤説は信じることはできないし、その系譜についても義房以前は不明というのが妥当な見解であろう。
 当初の本堂城は山城であったが、天文年間に平城を築き、移ったと推定されている。戦国期の本堂氏は、戸沢氏や小野寺氏の勢力に挟まれ、微妙な立場にあった。義親は戸沢氏と戦い鴬野で戦死、頼親は金沢城主と戦い野口で戦死、朝親も波岡で戦死している。
 天正年間の本堂城主は忠親で、かれは天正18年(1590)小田原に参陣し、同年秀吉から本領のうち、八千九百八十三石を安堵されている。また忠親は和賀秀親に実子がなかったため、和賀氏を継いでいる。  忠親の跡を継いだ茂親は、関ヶ原の合戦で徳川方につき、戦後常陸国志筑八千五百石に移され、子孫は江戸幕府の交代寄合として幕末まで存続した。



■参考略系図



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