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孕石氏
丸に橘*
(藤原南家工藤氏流原氏族)
*静岡の名字を参考にしました。


 孕石氏は遠江国佐野郡孕石村より起こり、藤原南家工藤氏流の原孫三郎光頼の子小六忠高が祖という。忠高は永亨十年兄忠頼、弟の忠永とともに足利将軍義教に召され、翌十一年、足利持氏追討の軍に加わった。この戦に兄弟三人ともに功をたて、忠高は孕石庄を賜り、孕石を称した。
 子孫は代々今川氏に重用された。忠高の後裔の又六郎左衛門光尚は、今川義元に仕えて文武に秀で、その子主水佐元泰は原谷村に住み藤枝鬼岩寺村を併領し、遠江三十六人衆の一人に数えられた。今川氏没落後、武田信玄に仕え、駿河先方衆となって、高天神城の武者奉行となり、天正九年(1581)落城のとき、徳川方大久保忠世の家来三倉忠衛門と渡り合い不幸にも捕えられて切腹した。
 孕石主水が今川氏に仕えていたころ、徳川家康は今川義元のもとに人質となって、駿河に屋敷をもらって住んでいた。この頃、家康は竹千代と呼ばれていた。この竹千代の邸の隣が孕石主水であった。竹千代は鷹狩りが好きで邸の裏庭の薮になかでよく鷹を放した。ところが鷹は獲物を追ってしばしば孕石の庭へ飛んでいった。竹千代も鷹を捕えるために孕石の裏庭へ入っていった。そこで孕石と出会った。その都度孕石から他人の邸内に入ることはならぬと咎められた。
 そして、主水は会う人ごとに「人質の分際で三河の小倅にはまったくあきれ果てた」と放言していた。家康はこのことを記憶していて孕石主水が生け捕りになったと聞くと「我を咎めた孕石ならば切腹させと」と命じた。主水は「自分には何も悔やむことはない」といって潔く切腹した。
 主水が捕えられたのは天正九年三月二十二日のことで、城より突き出て柵を二重揉み破って死を覚悟したところ、両の高股を打抜かれ歩行が叶わず、また、自害をする間もなく生け捕りとなった。はじめ打ち首にするところを弓家田六左衛門が孕石と所縁あって検視に乞い、切腹となったと伝えられている。孕石主水の墓は有度郡池田の本覚寺の裏山にあるという。
 主水佐の子元成は武田氏滅亡後、駿遠内の旧領地に引き籠り京極氏に属したが、小田原の役には井伊直政に従い、のちに掛川藩山内一豊に仕えて土佐国に移住したと伝えられている。



■参考略系図
 
  


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