平安時代末期から鎌倉時代にかけての越後国の豪族。桓武平氏のい一流で、余五将軍平維茂の子繁成が出羽(秋田)城介だったことから、その子貞成以降城氏を称した。城氏が越後に勢力を伸ばした事情は明かではないが、文久五年(1117)五月の検非違使庁下文に「越後住人平永基」とみえ、ほぼ11世紀末には越後に入っていたとみられる。 その後、奥山太郎・豊田二郎・加地三郎など、当時、北越後にあった荘園の名称を通称とした一族がいるので、12世紀半ばには北越後に勢力を拡大していたものと考えられる。嫡流は、永基のあとは九郎資国、その子太郎資永と続いて源平争乱期を迎えた。 この時城氏は平家方に属して木曽義仲と対立し、そのさなかに資永が病没すると弟の四郎長茂が一族を束ねたが、ついには源氏に降った。長茂は源頼朝のもとで奥州征伐に加わるなどして「免許」されたとみられるが、頼朝の没後上京して再び源氏打倒をはかって挙兵したが失敗、吉野で討ちとられた。長茂に呼応して本国で挙兵した資永の子資盛らも幕軍に鎮圧され、一族のほとんどが滅亡してしまった。 南北朝時代に小泉庄で城氏、室町時代末期に古志郡・蒲原郡で城氏を名乗る玉虫氏があるが、越後城氏の勢力は長茂・資盛で終わったとされよう。 戦国期-越後城氏の動向 戦国期、城貞茂は上杉謙信に仕えたが、子の景茂のときに謙信の勘気を蒙り父子ともに会津で牢人となったという。のち甲斐国にいたり、武田信玄に仕えた。『甲斐国志』『甲陽軍鑑』では、騎馬十騎・足軽三十人をつけられ侍大将になったとある。 景茂は永禄九年(1556)春、武田信玄が甲斐国の寺院調査の巡行にあたって一蓮寺で歌会を催したとき、六十人衆の一人として寺中奉行をつとめている。またそれ以前の永禄六年二月の信玄の西上野攻めには旗本の侍大将のひとりとして箕輪城攻めに活躍した。このとき、弟の資吉は討死したという。景茂はのちに意庵と号している。 景茂の子昌茂は甲斐国に来たときは十歳であったが、永禄十三年の上野厩橋攻めで、弟の次郎左衛門とともに活躍した。永禄起請文には父城和泉守景茂がみえ、一族の玉虫氏の名もみえる。長篠の合戦では駿河深沢城番となり、この戦ののちに景茂は死去した。 昌茂は武田勝頼の侍大将としても活躍し、伊豆出陣中の武功が大きかったと『甲陽軍鑑』にみえる。その後、織部佑を名乗った。武田氏滅亡後の天正起請文には城織部同心として、今西甚九郎以下四十九人の侍衆がみえ、徳川家康に随伴した。小牧・長久手の戦ののち七千石を与えられた。しかし、大坂の陣で、軍令無視により罪を負って改易となった。その後、信茂が秀忠に仕えて二千石に返り咲いた。 城氏の家紋としては「獅子に牡丹(右図)」が有名だが、『寛永重修諸家系譜』には、家紋「菱、花菱」とある。武田氏にちなんで使用したものであろう。 ■参考略系図 |