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河田氏
三つ巴
(藤原南家工藤氏流)
*一族で徳川旗本となった家は
 「庵に木瓜」を用いている。


 越後長尾氏には、上田・古志などの一族があった。長尾景虎の母親虎御前は、栖吉城の古志長尾氏の顕吉の娘といわれている。しかし、古志長尾氏の系譜には顕吉の名も虎御前の名もみえない。年代からすると顕吉は房景に比定される。
 景虎が生まれた享禄三年(1530)は、父為景と上杉一門の上条定憲との間で合戦が繰り広げられていた。戦いは次第に為景に不利となり、ついに為景は上条方に府内を包囲されるという状況に陥り、天文五年(1536)家督を晴景に譲って隠居した。しかし、晴景は病弱で、越後国内の紛争を治める力量に乏しかった。そこで、晴景は弟で十四歳になる景虎を古志郡の栃尾城に送り込み、府内長尾氏の勢力強化を図った。のちに上杉謙信と名乗り、戦国時代の英雄のひとりに数えられる存在となった長尾景虎の活躍は、ここから始まったのである。
 天文十七年(1548)、景虎は晴景から家督を譲られ、越後の統一を進め、守護上杉定実の没後は実質的に国主の座についた。弘治三年(1557)には後北条氏に追われ越後に亡命してきた関東管領上杉憲政を庇護し、関東管領職と上杉の名跡を譲られた。このことが、永禄三年(1560)から天正二年(1574)まで、十四回にわたって続けられた上杉謙信の関東出兵を決定したのである。

河田長親の登場

 越後国内を平定した景虎は、永禄二年(1559)将軍足利義輝に拝謁するため上洛した。この上洛で、景虎が近江の日吉大社に参詣したとき、一人の稚児に目をとめ、越後に連れ帰った。この稚児こそ、のちに謙信の片腕となって活躍する河田長親であった。長親は、独身であった景虎好みの青年であったらしい。
 長親の河田氏は、『藤原氏河田系図』によれば、藤原鎌足の後裔で、清親のとき河田氏を名乗ったとある。長親の出身地は近江国で、琵琶湖の南東、現在の滋賀県守山市川田町付近であった。いまでも、川田町には、長親一族の子孫と伝える川田姓の人々が長親の威徳を守っているという。
 景虎に仕えた長親は、古志長尾氏を継ぎ、長尾の姓と巴の紋を与えられた。しかし、長尾の姓を名乗ることは憚って辞退したと伝える。長親は景虎の期待によく応え、初めはその側近として、また景虎が越中方面へ勢力を広げていくと、栖吉衆を引き連れて最前線に出動して活躍した。永禄四年には、景虎政権を支えた重鎮の一人直江景綱と連名で「長親」と署名している。また、永禄十年には、犬茂島で起きた土地争いを裁定している。このように新参の長親は、景虎とも縁の深い古志長尾氏の後継者として、景虎から厚い信頼と待遇を得て、その才能を発揮していたことがしのばれる。
 ところで、古志長尾氏には房景の子で景虎には叔父にあたる景信がいた。景虎が上杉姓を継承すると、景信も上杉姓を与えられ、上杉一門として景勝・山浦国清に継ぐ三番目の地位を占めた。長親が古志長尾氏を継いで栖吉城将になると、景信は春日山城に出仕して、その留守を預かる職にあることが多かった。

長親の活躍

 長親は謙信の越山に従って関東に出陣、永禄四年夏から翌年まで厩橋城を預けられ、ついで沼田城に出陣してその城将となった。永禄十一年になると、謙信と北陸方面の一向一揆との戦いが本格化し、長親と栖吉衆は、最前線の越中国に派遣された。謙信帰国後は魚津城主として留められ、謙信の越中経略の一翼を担った。  謙信の越中政策は、魚津城の長親と新庄城の鯵坂長実を中心に進められた。しかし、一向一揆との戦いは一進一退を繰り返し、元亀三年(1571)に長親は一向一揆によって手痛い敗北を喫し一揆勢の進撃を許すという事態もあった。ところが、翌年甲斐の武田信玄が没し、謙信の軍が越中に投入されたことで、戦況は一変した。
 元亀から天正へと改元されてまもなく、長親を大将とした上杉軍は、椎名康胤を攻めてこれを追放した。この戦功で長親は太田下郷を与えられ、現在の富山県神通川の東岸を支配した。
 天正四年(1576)、織田信長が急速に北陸方面に勢力を拡大してきた。謙信は一向一揆勢と和睦し、守山城の神保氏張を追い、ようやく越中に足掛かりをつくった。翌天正五年、謙信は能登へ出陣し、織田勢と結んでいた七尾城を攻略し、さらに、織田軍の最前線である手取川に進撃した。このとき、長親は謙信から命じられて鯵坂長実とともに七尾城を受取っている。こうして能登国も謙信によって平定されたのである。
 ところが、天正六年(1578)三月九日、謙信が急死した。謙信に実子はなく、養子に景勝と景虎の二人いた。そして、この二人が謙信の後継者の座をめぐって争うことになった。この戦乱は「御館の乱」と呼ばれる。
 謙信が死去したとき、長親は越中の陣で織田勢と戦っていた。織田信長からは上杉氏に背くよう誘いがきたが、それを斥けて景勝を支援することにした。乱は翌年まで続き、越後国内は両派による激しい戦いが繰り返された。戦況は次第に景勝の優勢となり、ついに天正七年三月、実家の小田原に逃亡しようとした景虎が堀江宗親の裏切りで自害したことで景勝の勝利となった。その後も、景虎方の抵抗が続いたが、それも景勝勢によって制圧され、天正八年(1580)御館の乱は終熄した。

河田氏のその後

 御館の乱が終わった翌天正九年(1581)三月、河田長親は越中松倉城で急死した。三十九歳の若さであった。その跡は幼い岩鶴丸が継いだが、織田勢との最前線にある松倉城を守ることは無理とされて栖吉城に帰された。その岩鶴丸も天正十四年、十三歳で早世してしまった。もちろん跡継ぎはなく、岩鶴丸の従兄弟になる親詮が継いで家名断絶は回避された。しかし、これまでのような栖吉城将の地位は認めてもらえず、栖吉衆の一員に格下げされてしまった。これにより、いままで河田氏に従っていた山田修理亮らは独立した武将の扱いを受けるようになるなど、河田長親一代で築いた栖吉衆は解体されてしまった。
 慶長三年(1598)、景勝は会津に国替えとなり、河田親詮も会津に移り、田村郡の郡代を命じられ三千石を与えられた。慶長五年、関ヶ原の合戦後、上杉氏が米沢に移されると、伊達・信夫郡代として福島に住み、翌六年には福島奉行となった。その子氏親も福島郡代をつとめ、孫の嘉親は信夫代官をつとめたが、のちに米沢へ移り御馬廻組に配された。以後、代々御馬廻組となり幕末に至った。
 一方、長親の叔父で上野の沼田城将であった河田重親は、御館の乱に際して景虎方つまり後北条方に属し、後北条氏が滅亡したあとは徳川家康に属して江戸時代は徳川旗本として存続した。重親の後裔である旗本河田氏は、出自を藤原南家流伊東氏の後裔といい、家紋は伊東氏の代表紋である「庵に木瓜」を用いていた。河田長親の家紋も本来は「庵に木瓜」であったのだろうか。
 いずれにしろ、河田氏は長親が謙信に見い出され、その活躍によって歴史に登場したといえよう。そして、近江国にいた一族の者たちが越後に移住した。こうした様子は、一族の有能な者が大将に出世すると、自身の立身出世をそれに託すという、戦国時代に生きた人々における処世の一典型を示す話といえよう。


■参考略系図
    



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