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鮎川氏
五三の桐
(桓武平氏秩父氏流色部氏庶流)


 鮎川氏は越後国小泉荘を領した国人で、本庄氏から早い時期に分かれた一族とされている。鮎川氏は室町時代後期から瀬波川と門前川の合流付近を中心に独自ば領域支配を展開していったようで、一円的な領域支配までには至らなかったようだが、揚北衆の有力者本庄氏についで、領主としての影響力を持っていたようだ。>
 戦国時代に大場沢に城を築き、相川から移動したとみられ、「永正の乱」ではいずれの領主にも組みすることなく、守護上杉定実に対抗して大場沢城を守護勢に攻められたこともあった。鮎川氏は初め本庄領内の一領主であって次第に勢力をつけ、ついには本庄氏に対抗する国人領主に成長していったものと考えられている。他方、鮎川氏は会津蘆名氏の系譜を引いているとする説がある。

越後の争乱

 永正四年(1507)為景は挙兵して府内の守護館を急襲、房能はあえなく敗れて関東に逃れようとするところを補足されて討死してしまった。「永正の乱」とよばれる長尾為景の下剋上で越後の戦国時代は幕開けとなり、その後の歴史の流れを決定した大事件であった。以後、越後は為景を支持する者と反対派とに分かれて内乱が続くことになる。>
 為景の台頭に対して、本庄時長・色部昌長・竹復清綱ら揚北の国人領主たちはそれぞれの居城において為景・定実に反抗の兵を上げたがたちまち平定された。その後、房能の兄で関東管領の顕定が越後に兵を入れたのは永正六年のことであった。顕定軍はさすがに精強でたちまちのうちに為景・定実は蹴散らされ、越後から越中へと落ちていった。しかし、為景・定実は体勢を立て直して越後に攻め入り、関東軍を撃破し関東へ逃れようとする顕定を討ち取った。>
 ここに至って長尾為景の権勢は旭日昇天のものとなり、事実上の越後国主的地位にのし上がった。これに対して定実の実家上条上杉氏の当主上条定憲は享禄三年(1530)為景に対して挙兵した。この「上条の乱」の初めにおいて、揚北と刈羽の諸将は同盟を結んで対為景共同作戦を展開しようとした。かれらは「壁書」をつくってその規定を列挙したが、それに署名した諸将のなかに鮎川清長の名が見えている。清長は藤長の子で、信濃守を称して天文二十年代(1551頃)まで活躍した。>
 戦乱は、為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国が政変でたおれたことで、上条方が活気づき、いよいよ為景は四面楚歌という状況に陥り、為景は隠退を決意し嫡子晴景に長尾家督と守護代職を譲った。そして、その年の暮れに為景は波乱の生涯を閉じたのである。

謙信の登場

 その後の越後の政治情勢は晴景から家督を譲られた景虎が登場したことで、急速に統一されていった。そして、定実の死を受けて長尾景虎が事実上の越後国主となったのである。天文年間になると、隣国信濃は甲斐の戦国大名の侵攻を受け、領地を侵食された信濃北部の国人領主らが景虎を頼ってきたことで「川中島の合戦」が起こった。さらに、小田原北条氏に追われて越後へ逃れてきた関東管領上杉憲政を庇護し、永禄三年(1560)には関東に出兵し、翌四年には小田原城を攻撃、そして、憲政から上杉名字と関東管領職を譲られた長尾景虎は上杉政虎(以下謙信と表記)と改めた。>
 このように永禄・元亀年間になると、謙信の活動は最高潮に達し、関東.信濃.越中へと出撃を繰り返した。とくに永禄四年は多忙な年で、小田原城攻撃、関東管領就任、そして、九月にはもっとも激戦となった第四回目の川中島合戦を戦った。この戦いに鮎川清長も参加し、本庄繁長・色部勝長らとともに武田軍別働隊に備えた。謙信の本軍は八幡平で武田信玄の本陣を攻撃、初戦は上杉方の優勢であったが、別働隊の到着によって乱戦となり鮎川清長らは謙信の軍に合流して武田軍と一大会戦を展開した。>
 その後も盛長は謙信に仕えて天正元年(1573)には、直江景綱とともに春日山城の実城・二の郭・三の郭の塀を作っている。そして、天正五年に上杉謙信が作成した上杉軍団の動員名簿である『上杉御家中名字尽手本』にも名前を列ねている。天正六年三月に謙信が死去し、そのあとに起こった景勝と景虎の家督争いである「御館の乱」では上杉景虎から味方に参じる旨の書状を送られている。乱後に起こった「新発田重家の乱」には中立的態度に終始した。>
 鮎川盛長がいつごろ死んだのかは不明だが、子孫は、上杉氏に仕えて会津・米沢へと行動をともにしたようで、米沢図書館に蔵書された米沢藩士を記録した『米府鹿子』には鮎川氏の名も見いだせるのである。


■参考略系図
    


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