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阿蘇氏 ●ダイジェスト
違い鷹の羽
(阿蘇国造流)


 阿蘇氏は、日本統合以前の小国家首長で、大和朝廷氏姓制度下において阿蘇姓を称し、肥後国阿蘇国造であった。また、律令制下の郡司の伝統も負い、阿蘇神社の建立により、代々その祭祀を行い、延喜年間に友成が大宮司職となり。以後歴任した。出雲の千家、宇佐の到津氏らとともに古代末から系譜の明確な家であり、宇治氏を称し、中世は武家として活躍した。
 康治元年(1142)大宮司宇治惟宣が、保延三年(1137)以来の年貢済物の確認を求めているのが初見。治承四年(1180)大宮司に任じられた惟泰も、領家源定房政所から年貢の沙汰を求められているので、源氏荘官であったこともわかる。また、惟泰は養和元年(1181)菊池隆直とともに平氏に背いて挙兵していることから、このころには武士化していたようだ。
 その子惟次の代になると、一応任期制であった大宮司の地位は惣領に独占され、開発した南郷の諸村は、地頭・預所の地位を得ていた北条氏の安堵を受けるようになった。
 元弘の変では菊池氏とともに戦い、日向鞍岡で北条一門の規矩高政の軍と戦ったことを認められ、建武中興では阿蘇郡の本社領、甲佐・健軍・郡浦社の支配権が、本家・領家の支配権を含めて与えられたことから、大宮司の権威は強大となった。建武三年(1336)、後醍醐天皇に足利尊氏が反乱を起し、敗れて九州に落ちてくると、惟直は菊池武敏とともに香椎多々良浜で尊氏を討とうとしたが奮戦及ばず敗れて、肥後へ退く途中、佐賀の小城で討っ手に追われ自刃して果てた。このとき、弟の惟成も戦死した。
・阿蘇神社拝殿

争乱の時代と阿蘇氏

 その後、惟直兄弟の父惟時が大宮司に復活、一族で婿の惟澄とともに南朝方となったが、孫熊丸は北朝方大宮司としてこれに対立した。そして孫熊丸を破ったのち、惟時は態度を不鮮明にして動かず、惟澄が菊池氏とともに南朝方として積極的に活動した。惟澄の声望が上がったことから、惟時は惟澄に大宮司職を譲ることとなる。
 しかし、惟澄の跡は北朝方の長子惟村と次子で南朝方の惟武とがそれぞれ大宮司を称して対立した。以後、惟村の子孫は益城郡、惟武の子孫は阿蘇郡を支配して、室町期を通じて対立関係にあった。南北朝合一後、宝徳三年(1451)惟武系の惟歳は惟村系の惟忠の養子となることで合意がなされた。しかし、文明十七年再び争い、惟歳が敗れて惟忠系が大宮司職を独占した。
 この勢力を背景に惟憲の子惟長は、弟惟豊に大宮司職を譲って、自らは守護菊池氏の跡を襲封し、菊池武経となった。しかし、武経の子惟前は、大宮司職を望んで惟豊を益城郡堅志田城に襲い追放した。惟豊は、甲斐宗運を頼って阿蘇・益城郡の兵をもって大宮司職を回復した。惟豊は豊後大友氏と盟友関係にあったため島津氏の肥後征討の目標となり、惟豊の死後は甲斐宗運が、幼主惟光を補佐してわずかに阿蘇家の命脈を維持した。
 宗運亡きあとは、惟光は島津氏に属し、のち秀吉の九州平定後は熊本城主佐々成政を頼った。その後肥後は加藤清正に代わったが、清正の挑戦出兵中に、阿弥陀寺で殺害された。
 清正は帰国後、惟光の弟惟善に封土を与え、大宮司職を復させた。以後、代々阿蘇神社社家として存続し、 明治に至り男爵を授けられ華族に列した。

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