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堀江氏
蛇の目
(藤原利仁流斎藤氏族)


    堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔斎藤氏の一流が、越前国坂井郡堀江郷に土着して堀江氏を称し、南都興福寺兼春日社領河口庄・坪江庄に勢力を扶植していったものである。
 長禄のころ(1459頃)守護斯波氏と守護代甲斐氏との抗争が始まると、宗家の堀江石見守利真は守護方に、庶流の細呂木・本庄氏は朝倉氏とともに守護代方となって争い、結局守護方が敗北して堀江利真も敗死し、それまで朝倉死をしのぐ勢力であった堀江氏も凋落してしまった。その後、宗家石見守家を復興して朝倉氏の被官になったのが堀江景用である。

朝倉氏の被官に

 長享二年(1488)加賀一向一揆は守護富樫氏の居城高尾山城を攻撃した。堀江氏と富樫氏は同族であることから景用は朝倉光玖とともに富樫氏合力のため加賀へ出兵したが、時すでに遅く、高尾山城は落城してしまった。堀江氏の本拠は番田村であったが、加賀一向一揆の侵攻に備えて、川南に城館を移したようである。  景用の子景実は、三国湊を支配して船奉行的存在であったことが『朝倉始末記』にみえる。景実の嫡子は景用であったが、早世したらしく、孫の景忠が家督を継いだ。
 弘治元年(1555)、加賀一向一揆誅伐のため朝倉教景(宗滴)は加賀へ出兵した。景忠も手勢一千余騎を引具して大聖寺へ兵を進めた。『朝倉始末記』によれば、手の者のなかには舎弟左京進・叔父駿河守景利・同名兵庫助らが見え、これら一族とともに景忠は激しく奮戦して戦功をたてた。しかし、堀江氏は朝倉家臣中にあって最も強力な外様衆であって、朝倉氏からは絶えず注意を払われていたようで、とくに朝倉義景は堀江氏に強い疑念をもっていたといわれる。
 そして、永禄十年(1567)、景忠父子が加賀一向一揆を後ろ楯として義景に背くとの風聞が伝わった。義景は魚住景固と山崎長門守を両大将にして二千余騎を引率させた。朝倉勢は、金津の溝江河内入道の館に着陣し、いよいよ本荘城の堀江氏攻撃を始めた。戦場は金津と本荘の中間、上番・谷畠・仏徳寺一帯となったが、朝倉側は堀江父子の知謀軍略によって悩まされ、はかばかしくなかったことから、作戦を立て直し、東南西の三方から本荘城を攻撃して堀江勢を背後の竹田川に追い落すことにした。
 このころ、小和田本流院真孝が調停に乗り出してきた。堀江景忠の内室・本流院真孝内室と朝倉義景の母は三姉妹で同じく武田中務少輔の娘であったからである。本流院真孝が義景の母公とともに理を尽くして堀江の罪の許しを乞うたので、さしもの義景もついに折れて堀江攻撃を中止した。堀江父子は本荘城を出て真孝の住持となっていた加戸の円福寺に入り、その後能登国隈木という在所に隠居した。

堀江氏の終焉

 天正元年(1573)八月、朝倉義景が滅亡し、翌年二月、越前において一向一揆が蜂起すると、景忠は越前に帰国し、一揆とともに溝江氏を滅ぼして再び本領を回復した。このころ、景忠を改めて藤秀と改名したらしい。藤秀は一揆に同心するち見せながら、密かに織田信長に好を通じ、天正三年八月、信長の越前攻略に際しては、背後から一揆を攻撃した。
 信長は越前平定後、藤秀の戦功を賞して嫡子の利茂に加賀大聖寺を所領として与えた。しかし、藤秀は意の満たざるところを表わしたため、天正四年四月、三国滝谷寺に押し篭められて誅殺され、堀江氏は滅亡した。
 ところで、堀江氏の家紋は、利仁流の紋であるところの「撫子」であったと思われるが、景用の時から「蛇の目」紋を使用した。これには伝説があって、景用の母は、実は蛇の化身であったという。母は景用の前から去るときに、「蛇の目」が八つついた旗を残していった。景用は母の形見である「蛇の目」の旗をもって戦場に出、数々の戦功をたてたのである。以後、堀江氏の紋は「蛇の目」になったと伝えられている。


■参考略系図
 


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