穴沢氏
丸に三階菱*
(清和源氏?)
*会津藩士穴沢氏の家紋。
 戦国期穴沢氏の後裔か?

   越後魚沼に穴澤城あり、平賀盛義の後裔犬飼兵衛入道貞長が河州より来住して広瀬郷の領主となり、穴澤村に住した。その曾孫にあたる穴澤泰長の子・穴澤越中守俊家は天文年中に、会津の戦国大名蘆名盛高に仕えたという。
 俊家は越中守を称した。文明十八年(1486)、葦名盛高の命により、出羽国との国境に近い米沢街道沿いの耶麻郡檜木谷地一帯に住む山賊を退治した。俊家の死後、家督は嫡男の俊清が継いだが病死し、その子も幼かったので弟の俊直が家を継いだ。俊直は賊五十人ばかりと出会い、配下のものとともにこれを討ったが数創を受けてその日の暮方に落命した。
 永禄七年(1564)四月、米沢城主伊達輝宗は桧原の戸山城を攻めようとした。これに対し穴沢俊直の孫加賀守信徳は桧原峠に兵を出し、これを阻止した。その後も伊達勢の侵攻があったが、信徳はその都度、敵に大打撃を与えてこれを撃退し、葦名盛氏より恩賞として耶麻郡大荒井村を与えられた。
 信堅は新右衛門を称した。天正十年(1582)小荒井村の地頭小荒井阿波と戦ってこれに勝ったが、私闘と断じられ、その罪によって父が恩賞として拝領した大荒井村を没収された。
 これを聞いた伊達政宗は、伊達方に内応をすすめたが、信堅は応じなかった。しかし、信堅の従兄弟四郎兵衛は政宗に内応し、風呂屋又五郎らとともに伊達勢をひそかに桧原に引き入れた。それとは知らない信堅は、風呂屋の饗応に招かれ、そこで謀殺された。

●穴沢助十郎広次

 このとき、信堅の子広次は、相州小田原の北条家の様子を視察しようと関東にあった。そして、大塩に帰って、変事を知り、叔父信清のもとに寄食した。天正十三年正月、広次は一族を率いて賀詞言上のために黒川に伺候し、桧原の伊達勢を追い落としたい旨を申し上げた。
 しかし、四天の宿老たちは広次に大塩を堅固に守るように命じるのみであった。その後、政宗は桧原に在って新たに小谷山城を築き、河岸に馬場を構え、日々乗馬して陣中の慰めとしていた。これを知った広次は一族の者とともに桧原に潜入、馬場の木陰に潜み、政宗を射殺しようとその隙をねらった。ところが機会は訪れず、広次は無念に思い、矢立をとって一文をしたため、矢に結んで馬場中に射放った。政宗はこれを見て、穴沢の者共はかくも不敵なる者か、といって後藤孫兵衛に桧原を守らせて米沢へと引き揚げていった。
 天正十四年四月、広次らは穴沢一族三百余人をもって小谷山城に迫った。城方は穴沢整の寡弱なるさまをみて、五百余人が城から打って出てきた。穴沢整は戦いつつかつ退き、味方の伏せているところまで、城兵をおびきよせる急に攻め、これを大いに破って敵の首級五十余を得た。
 六月五日、葦名義広は伊達政宗と摺上原で戦い敗れて、会津から落去するに及んだ。これに際し穴沢一族もまた大潮塩村から退去し道知窪の山中に潜んだ。のち蒲生氏郷が会津の大守になるとこれに仕え、桧原村に帰住した。その後、上杉・加藤両氏が会津を治めたときも桧原に居住し、寛永二十年(16443)、保科正之が会津に入封してからは、広次の子光茂に禄が与えられ北境守備の任にあたった。

■参考略系図
詳細系図不詳。信徳は俊家の孫とされるが、俊清の子か否かは不明。