越後魚沼に穴澤城あり、平賀盛義の後裔犬飼兵衛入道貞長が河州より来住して広瀬郷の領主となり、穴澤村に住した。その曾孫にあたる穴澤泰長の子・穴澤越中守俊家は天文年中に、会津の戦国大名蘆名盛高に仕えたという。 俊家は越中守を称した。文明十八年(1486)、葦名盛高の命により、出羽国との国境に近い米沢街道沿いの耶麻郡檜木谷地一帯に住む山賊を退治した。このとき、俊家は弟の常陸介と三百五十余人の郎党を引き連れ、四方より包囲して山賊ニ百七十余人を討ち取り、その巣窟を一掃した。盛高はこれをおおいに感賞し、貞宗の刀と、境野・寺入・道知窪の三ケ村を与えてこの地におき、出羽国への押さえとした。 俊家の死後、家督は嫡男の俊清が継いだが病死し、その子も幼かったので弟の俊直が家を継いだ。その後、桧原川に護岸工事を施さなければならない箇所ができ、俊直は人夫と若党を連れて出かけた。すると、仙道よりやてきた賊五十人ばかりと出会い、配下のものとともにこれを討った。このとき、俊尚は自ら長刀を揮って賊十余人ばかりを斬ったが、数創を受けてその日の暮方に落命した。 永禄七年(1564)四月、米沢城主伊達輝宗はその家臣石川但馬に二千五百余の兵を付け、桧原の戸山城を攻めようとした。これに対し穴沢俊直の孫加賀守信徳は、会津と米沢の国境いである桧原峠に兵を出し、これを阻止した。翌年七月、翌々年正月にも伊達勢の侵攻があったが、信徳はその都度、敵に大打撃を与えてこれを撃退し、葦名盛氏より恩賞として耶麻郡大荒井村を与えられた。天正元年(1573)、隠居して家督を子の信堅に譲り、岩山に館を築いて住んだ。 信堅は新右衛門を称した。天正十年(1582)小荒井村の地頭小荒井阿波と戦ってこれに勝ったが、私闘と断じられ、その罪によって父が恩賞として拝領した大荒井村を没収された。 天正十二年、これを聞いた伊達政宗は、もと葦名氏の家臣であった七宮某を遣わし、伊達方に内応をすすめたが、信堅は応じなかった。しかし、信堅の従兄弟四郎兵衛は政宗に内応し、風呂屋又五郎らとともに伊達勢をひそかに桧原に引き入れた。それとは知らない信堅は、風呂屋の饗応に招かれ、そこで謀殺された。そして、穴沢家清・信春父子、同加賀守・同新右衛門らは伊達勢と戦ってともに討死した。 穴沢助十郎広次 このとき、信堅の子広次は、相州小田原の北条家の様子を視察しようと関東にあった。そして、大塩に帰って、変事を知り、叔父信清のもとに寄食した。天正十三年正月、広次は一族を率いて賀詞言上のために黒川に伺候し、父祖一族、謀計にあて不慮の死を遂げたので、ぜひ先陣を賜り、桧原の伊達勢を追い落とした旨を申し上げた。 しかし、葦名氏は当主の亀王丸が幼いこともあって、四天の宿老たちは広次に対して大塩に帰り、地頭三瓶大蔵の柏木森に拠り大塩を堅固に守るように命じた。このころ、関柴の地頭松本備中が政宗に内応し、伊達勢が関柴に入って民家に火を放たせた。黒川整はただちにこれに反撃し、松本備中を討ち取った。 政宗はこのことを知らずに桧原に出陣し、大塩に兵を進めた。このとき広次は黒川の本陣にあって浜崎にいた。大塩の伊東大膳・三瓶大蔵らは防戦につとめ、慎重を期した政宗は軍を返した。広次は浜崎より帰ってこれを聞き、せっかく政宗を討ち取る機会であったものをと、残念がることしきりであったという。その後、政宗は桧原に在って新たに小谷山城を築き、河岸に馬場を構え、日々乗馬して陣中の慰めとしていた。これを知った広次は一族の者とともに桧原に潜入、馬場の木陰に潜み、政宗を射殺しようとその隙をねらった。ところが機会は訪れず、広次は無念に思い、矢立をとって一文をしたため、矢に結んで馬場中に射放った。政宗はこれを見て、穴沢の者共はかくも不敵なる者か、といって後藤孫兵衛に桧原を守らせて米沢へと引き揚げていった。 天正十四年四月、広次らは黒川の兵をかり、桧原い攻め入ろうとしたが許されなかった。やむなく、穴沢一族三百余人をもって小谷山城に迫った。城方は穴沢整の寡弱なるさまをみて、五百余人が城から打って出てきた。穴沢整は戦いつつかつ退き、味方の伏せているところまで、城兵をおびきよせる急に攻め、これを大いに破って敵の首級五十余を得た。 六月五日、葦名義広は伊達政宗と摺上原で戦い敗れて、会津から落去するに及んだ。これに際し穴沢一族もまた大潮塩村から退去し道知窪の山中に潜んだ。のち蒲生氏郷が会津の大守になるとこれに仕え、桧原村に帰住した。その後、上杉・加藤両氏が会津を治めたときも桧原に居住し、寛永二十年(16443)、保科正之が会津に入封してからは、広次の子光茂に禄が与えられ、北境守備の任にあたった。 ■参考略系図 詳細系図不詳。信徳は俊家の孫とされるが、俊清の子か否かは不明。 |