秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。ちなみに、秋鹿氏は「あいか」と読む。 朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。 他方、朝兼の三男政朝は、永禄四年に家康に仕え別家を立てた。天正十一年、家康の女が北条氏直に嫁したとき、付属せられて小田原に至った。十八年に小田原城が落ちると、上総国武射郡に籠居して死去した。あとを継いだ朝矩は徳川家康に仕えて、天正十二年の長久手の役に出陣して討死した。 ■府八幡宮(ふはちまんぐう) 天武天皇の曽孫桜井王が遠江國の国司として赴任された時、庁舎内に祭られたのがこの神社のはじめである。従って、府八幡宮と称し、奈良平安時代の社宝が現存する。また、鎌倉時代には秋鹿氏がこの地に止まり神主となり、江戸時代は代官も兼ねて250石を給せられた。境内には、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある。 【府八幡宮】 ■参考略系図 |