越前の戦国大名朝倉氏に仕えた山崎氏は、山城国山崎邑から起こった。『山崎家譜』によれば、赤松則村(円心)の子氏範の孫、肥前守某が山城国山崎邑落居し、その邑名をもって姓にしたと伝える。その七世の孫、肥前守長時に至って朝倉孝景(英林)に仕えたという。また長時と同時代に、孝景・氏景・貞景に仕えた新左衛門尉、のちに長門守を称した吉家も知られている。 文明十一年(1479)の「清水寺再興奉加帳」に「山崎新左衛門尉吉家」とみえ、また「題朝倉英林居士与印牧広次書後」に、永正十年(1513)十月の英林居士三十三回忌に、孝景以来の忠臣で生き残っているのは、印牧広次・光林坊と山崎長門の三輩のみとあり、「家譜」にみえる長時は、長門守吉家と同一人物と思われる。長時は府中領主となって、その知行は四万石程の大身であったという。 戦乱を生きる 山崎長門守の子(家譜では孫)が長吉で、永正三年(1506)七月、加賀より越前に侵入した一向一揆を九頭竜川に朝倉勢が迎え撃った時、中角ノ渡の受手の総大将となって、黒丸要害に布陣した。八月二日、真っ先に合戦し、敵将川合藤八郎を討ち取る功名を挙げた。のち肥前守を称し、遁世後は祖桂と称した。 『朝倉始末記』に、享禄四年(1531)八月、弘治元年(1555)十月に加賀へ出陣した山崎新左衛門尉のことがみえる。この新左衛門尉は祖桂の嫡子吉家のことで、朝倉孝景・義景に仕え、朝倉内衆の一人であった。永禄十年(1567)十一月、一乗谷に移居した足利義昭を迎える朝倉義景に随伴する騎馬三人の中には山崎長門の名がみえ、この頃長門守に改称したものと思われる。 元亀元年(1570)総勢十万八千余騎を率いて織田信長が、近江坂本を発進、若狭を経て敦賀まで軍を進め、天筒・金ケ崎の両城を抜いて、朝倉氏本拠に迫ろうとした。その矢先に近江の浅井長政が信長に離反したため、信長は軍を撤退した。信長は浅井氏への報復として浅井攻撃を始める。そして、同年五月、吉家は朝倉景鏡に従軍して江州へ出陣し、六月、朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍は近江国姉川で激突した。この合戦は両軍引き分けとなったが、多くの将兵を失って圧され気味であった朝倉軍側は結局敗者であったかもしれない。 同四年三月、吉家は魚住備後守とともに三千騎を率いて若州へ、同年七月再び江州へ出陣して敵の向の山に対陣した。このころ、信長の浅井攻撃は息つくひまもないほどで、浅井の属将は次々と信長に寝返っていた。そして、天正元年(1573)八月十二日、朝倉義景は江州地蔵山まで出陣してきたが、朝倉・浅井を取り巻く戦況はすでに敗色が濃厚であった。このような敗軍のなかで、吉家は「義景様が江州まで兵を進めたのは誤りであった。私が敦賀表に居たならば、留め申し上げたのに誠に残念である、されば殿払い仕る」と、十三日明け方敵陣に斬り込んで、嫡子吉建とともに華々しく討死した。 一方、義景は、わずかに五・六騎を従えるのみで、一乗谷へ帰陣し、これを最期と覚悟して自刃しようとしたが、一族の景鏡の勧めで大野に落ちることにした。朝倉一族が放棄した一乗谷は信長軍に放火され、三日三晩焼け続けたという。大野に退却した義景であったが、結局景鏡に裏切られて自刃、朝倉氏は滅亡した。 吉家の弟吉延も兄とともに、刀禰坂の戦いで戦死した。吉延は七郎左衛門を称し、永禄四年(1561)四月、朝倉義景の三里浜犬追物の興行に随伴した家臣名中にその名が見えている。またかれは茶湯を楽しむ風流人でもあったようで、「松尾名物集」に「山崎七郎左□翁建盞」とあって茶湯の名品を有していたことが知られる。 加賀前田氏に仕える こうして山崎氏は朝倉氏滅亡とともに没落した。しかし、吉延の一子庄兵衛長徳が生き延びて、かれは明智光秀に仕え、山崎の合戦で光秀が滅んだあとは、柴田勝家の部将佐久間安次に従って賤ケ岳にも出陣した。賤ケ岳で柴田が敗北し、北の庄城で滅亡すると、長徳は前田利長に属し、各地で功を挙げた。その功により七千石を賜り、のちには一万四千石を領し加賀百万石前田家中で屈指の大身となった。以後、子孫は前田氏の重臣として明治まで続いた。 山崎氏の家紋は「小槌」であった。『加賀藩給帳』に「山崎庄兵衛 小槌、山崎勘左衛門 菱内小槌、山崎頼母 角内小槌、山崎守衛 同」などとみえ、宗家山崎氏は小槌で、庶流山崎氏は菱、角などを用いて宗家との区別をしていたことが知られる。その他庶流では蛇の目、檜扇などの紋を使用していたことが、さきの『給帳』に記されている。 ■参考略系図 |