天保七年、水戸斉昭の七男として生まれる。幼名は七郎麿。弘化四年一橋家を相続し、のち元服し、十二代将軍家慶の一字を賜わり慶喜と名乗る。家茂と十四代将軍の座を争って敗れ、隠居・謹慎。万延元年、大老井伊直弼が桜田門の変で殺された後、許され文久二年将軍後見職に就任。慶応二年七月将軍家茂没後徳川宗家を相続、十二月に十五代将軍に就任した。しかし、幕権の建て直しは慶喜といえども不可能な状況下にあった。
聡明な賢君などとたてまつられていたわりには、なんだかいい格好だけの御人だっ たような。 中根長十郎、平岡円四郎、原市之進など有能な家臣を非業のうちに死なし、 さらには、鳥羽伏見の戦いでは、前線で戦っている幕府の兵を見捨てて、夜陰に 紛れて江戸に 逃げ帰る。その後は幕末の戦いに背を向けてひたすら恭順という腑甲斐なさ。それを人によっては、新しい時代を開くのに功があったなどといいようにとらえているみたいですが、もっと違った身の処し方があったんではないでしょうかねー。 さらには、自分への鉾先を会津松平家に負わせて知らぬ顔、いやはやなんとも……。
慶喜は、江戸城を出て上野寛永寺の大慈院に謹慎し、水戸へ移住。そして、静岡に引退してからは、以後明治三十年まで同地で暮らした。困窮する家臣を尻目に、当時珍しかった自転車を乗り回したり、カメラであちこちを撮影したりと気ままなやりたい放題。「貴人に情無し」を、地でいったような人生だったようですね。
明治三十一年に明治天皇に会い、華族に列し公爵に任ぜられた。明治四十三年、世子慶久に家を譲り大正二年に没。七十七歳。墓は谷中墓地にある。ある意味では不運とはいえ、無責任な一生だったのかもね。正直いって、徳川氏というのは、初代将軍家康をはじめ慶喜に至るまで、好きになれない人が多すぎる、と思うのは小生だけでしょうか?もっとも徳川一族にも、保科正之・尾張宗春などという、結構好きな御仁もいることはいますが…。
■慶喜の家族
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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