赤罫 甲斐武田氏



武田信玄の肖像




 武田信玄の画像として最も有名なものとして、高野山成慶院蔵の長谷川等伯(信春)筆のもの がある。 むかしの日本史の教科書に採用されたもので、そのでっぷりと脂ぎった姿は、貪欲に周辺諸国を蚕食した 戦国大名武田信玄のイメージを彷彿とさせた。甲府駅前にある堂々とした 甲冑姿の信玄像もこの絵をモデルとして作られたものだ。
 近年、この画像を信玄像とすることに異論があらわれ、 最近の教科書では「伝武田信玄像」とキャプションをふられるか採用を見送られるケースが増えたようだ。 たしかに、画像を仔細に見ると武田氏の家紋である「菱」紋が描かれてていないこと。また、 像主の事績を記した賛が切り取られていること。このようなことから、この画像は「武田信玄の肖像」では ないとする風潮が定着しつつある。
・高野山成慶院蔵の武田信玄画像

 史実として、信玄は若年より労咳に冒され、 その最期も宿痾の労咳が死因となったようだ。 おそらく実在の信玄の風貌は、長谷川等伯の描く肖像のように健康的な肥満体ではなく、 痩せた細身の人物だったのではなかろうか。高野山持明院に伝えられた武田信玄肖像画は、 侍烏帽子に直垂という武家の正装姿をした痩躯の人物で、直垂には武田家の定紋「花菱」が散らされている。 持明院蔵の画像が信玄の実体を写し取ったものとみられ、こちらの画像を「信玄像」として使用する 傾向になっている。 一方、東京都の浄真寺に所蔵されている甲冑姿の吉良頼康画像を信玄画像とする説もある。たしかに 鎧の籠手や兜などに「花菱」紋が描かれているが、武田氏と吉良氏との関係や伝来の背景などが不明瞭で 信玄像と断定するにはいたっていない。


・高野山持明院蔵の武田晴信画像(左) / 東京都浄真寺蔵の吉良頼康画像(右)

 ところで、これまでの信玄のイメージを一般化した長谷川等伯描く信玄画像は一体誰を描いたものだろうか?。
 一説によれば、長谷川等伯(信春)の出身地が能登であることから、能登の戦国大名「畠山義続」を 描いたとするものがある。たしかに、身に帯びた刀装具(目貫など)に二つ引両の家紋が見られ、 畠山氏の画像とした方がうなづける。しかし、成慶院蔵の画像は 勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わること、描いた長谷川等伯信玄の正室三条夫人の実家と 関わりのある絵師であったこと、などから単純に信玄像ではないと否定するのもいかがなものかと思われる。



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