・・・・甲信越戦国大名割拠図
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四方を山に囲まれた甲斐国、戦国大名武田氏は甲斐国守護として鎌倉初期より同国に勢力を培ってきたのである。南北朝の動乱期には滅亡の危機に瀕したこともあった。守護代跡部氏に国を押領されたこともある。さらには、国内に割拠した一族たちとの同族争いを乗り越え、ついに信虎の時代に至って甲斐一国統一を成し遂げたのである。
その信虎を追放して甲斐国主となったのが、武田晴信すなわち信玄である。
国主となった晴信は野望をもって近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして上野・飛騨、そして今川義元戦死後の
駿河・遠江へとその領土を広げて入った。その間、信玄が行った周辺諸豪との謀略、合戦は、まさに甲信越戦国史
そのものであった。
元亀三年(1572)、信玄は野望の仕上げともいうべき上洛軍を起こし、甲斐国を後にした。武田軍団は
破竹の勢いで京を目指したが、
歴史は信玄の野望を実現させてはくれなかった。上洛の途中で宿阿ともいうべき病の再発によって上洛を断念、
帰国の途についたが信州駒場で、雄図むなしく病没した。ときに元亀四年四月十二日、享年五十三歳であった。
信玄の跡を継いだ勝頼は織田信長・徳川家康らと戦ったが、次第に劣勢に追い込まれていった、天正十年、
織田軍の甲斐侵攻をゆるした勝頼は、最期の場所として武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指した。しかし、
その途中の田野において進退窮まり、ついに嫡男信勝・北条夫人らとともに自刃した。
「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山のは」
三月十一日、まるで巨木が朽ち折れるかのように甲斐源氏武田氏は450年の歴史に幕を閉じたのであった。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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