夜久氏
剣酢漿草/九枚笹
(桓武平氏秩父氏流) |
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「覚性寺夜久家系譜」によれば、河越重頼の子重時が夜久家始祖という。
夜久氏の出自は武蔵国、桓武平氏秩父系河越氏?であり、秩父系の家系で承久の乱後(1221)地頭として丹波に来る。初代は秩父次郎平重時。
応仁の乱が勃発した翌年の応仁二年(1468)三月、但馬と丹波の国境の夜久野ヶ原で一大決戦が行われた。夜久野合戦と呼ばれ、山名宗全方に太田垣新兵衛・行木山城守、丹波の細川勝元方には内藤孫四郎貞徳率いる疋田長九郎左衛門や足立・芦田・夜久氏の家臣達が参戦した。夜久氏も細川方として出陣したが、戦いは細川方の敗戦となり、内藤孫四郎貞徳をはじめ多くの将兵が戦死、夜久氏とともに参戦した夜久郷の直見主直見大膳武綱も討死した。
・秀吉の夜久氏宛の手紙
天正十年、天王山の合戦に先立って、「いよいよ、今後往来あるべく候(=この後、秀吉の使者が頻繁に夜久氏の 領土を行き来する」という内容。
秀吉が正確な情報を得ていた証拠として、秀吉の弟・羽柴秀長が丹波の国衆・夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付の書状があげられる。それを現代語訳すると次のようになる。
たしかに申し上げます。さてそちら方面(夜久氏の本拠地
但馬・丹波国境沿いの夜久野地域)においては、羽柴家
の家臣の者どもがなんとか近江(長浜)まで往復してお
りますが、それについて(山陰道)を安全に送り届けて
いただきまして、大変ありがたく存じます。ますます今
後とも往来がありますでしょうから、特によろしくお願
いいたします。(後略)
この史料から、丹波の夜久氏の協力を得た秀長が、秀吉に従って備中高松城近郊にいた六月五日以前から、備中から姫路を経て北上し、但馬から丹波を通り、京都さらには近江までのルートを確保して、使者がその間を往復していたことは明らかである。
秀吉は、夜久氏をはじめとする街道沿いの領主層の協力を得て、光秀が張り巡らせていたであろう封鎖網をかいくぐって情報を得ていたのである。光秀は、自領の丹波を貫く山陰道を、よもや秀吉方の使者が往復するとは思っていなかったであろう。
・覚性寺
夜久氏の菩提寺で、元和年間(1615ー1624)建立。開基は夜久甚右衛門。兵庫県久田和村。
★片山氏は児玉党片山氏かと思ったが系図には秩父平氏で畠山重忠の先妻、足立遠元の娘が産んだ。畠山重秀末裔で後北条氏に従っていた。
【資料:夜久町史 ほか】
■参考略系図
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