楢原氏
不詳
(中原姓/古代豪族滋野氏後裔?)

 楢原氏は興福寺の大乗院方の国民で、葛上党(南党)の刀禰として一帯の武士たちを率いた有力国人であった。若宮祭礼の願主人として、鎌倉末期には、伴田(吐田)氏とともにその名が史上に現れる。両氏は若宮祭礼に流鏑馬(やぶさめ)を奉納するのが恒例だった。
 出自に関しては、大乗院寺社雑事記 文明三年(1471)、楢原景遠のものと考えられる書状には「仲原景遠』とある。また、承安三年(1173)興福寺大衆にゆる多武峯神社の焼き討ちがあったが、そのときの興福寺側の大将の一人「楢原中内光遠」が冬野において討ち死にした。この光遠は楢原氏の先祖とみられる人物で、仮名の中内は当時の慣習から中原姓にちなむものと思われ、楢原光遠は中原姓であったとみられる。一方、楢原に鎮座する駒形大重神社には、かつて楢原氏の祖という滋野朝臣貞主が祀られていたといわれ、楢原氏は滋野氏の後裔とする説もある。

●楢原氏の興亡

 さて、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡、つづく後醍醐天皇の親政による建武新政が崩壊すると、日本全国は南北朝の動乱時代となった。大和も例外ではなく、吉野や金剛山が戦場となった。葛上はその膝下にあり、楢原氏はこの楢原郷の山城に拠って南朝方として、越智氏とともに活動した。楢原氏の菩提寺だった九品寺(くほんじ)の境内や本堂裏山にびっしりと千体地蔵と呼ばれる石仏群がある。これは、南北朝の争いの時、南朝の楠木正成に味方した楢原氏の兵たちが身代わりとして奉納した石仏で、身代わり千体地蔵とも呼ばれている。
 その後、楢原氏は応仁の乱(1467)中に越智方から筒井方に転じて南隣の吐田氏と争うようになった。後に越智氏とは婚姻関係を結んで一門となり、南大和では越智氏に次ぐ勢力となった。越智氏系図によると、6代家永の子・重慶とその子の光慶の時に楢原氏を名乗るようになったという。
 応仁文明の乱以降はずっと筒井氏とともに転戦している。越智・古市氏の後援を得た吐田氏の攻勢をうけて城を追われて後は福住まで退却し、筒井・福住氏らと20年間にわたって共に在った。その後筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所への復帰を果した。
 かくして、楢原氏は葛城地域にあっては第一の筒井党として行動、順慶の代には楢原周防守俊久が内衆に連なって筒井氏の大和国支配を支えた。

駒形大重神社
中世には国民楢原氏の崇拝があつく、近くの九品寺(楢原氏の菩提寺とされていて、墓地には一族の墓もある)とともに楢原氏の神仏信仰の拠点となった。 

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【資料:奈良県史=大和武士 ほか】

■参考略系図