末武氏
唐花菱
(周防大内氏支族)

  
 周防の戦国大名大内氏の一族。大内弘貞の子弘藤が末武保の一部を領し、末武を称したことにはじまる。南北朝の内乱期に、同じ大内一族の鷲津氏を助けて宗家の大内弘世と戦って敗れた。その後、大内氏に属し、本領を離れて居を阿武郡へ移した。
 応仁の乱で大内政弘が不在の折、大内教幸は叛乱を起こしたが、陶弘護に敗れ、津和野三本松城に吉見信頼を頼った。文明二年十二月から翌年正月にかけて、陶弘護軍と信頼・教幸軍が地福・生雲・渡川で合戦に及んだ。正月一日、地福での戦いで、末武氏久、次男延忠、三男幸氏の三人が吉見信頼軍により一所に討死した。
 その後、大内氏が陶氏の謀叛によって滅亡すると、吉見正頼に属して、弘治のころ末武上総介忠氏は、吉見正頼から阿武郡大井郷領家三十石、同郡椿郷賀川津五石を宛行われている。吉見氏が断絶したのち、持久は毛利秀就に仕えた。
【一部、東京都の松本さんから、情報をいただきました。】

■参考略系図

大内弘貞─末武弘藤─貞盛┬弘氏─兼世─成為
            └弘世┬弘直
               └宣種─氏久┬弘春
                     ├正資
                     ├幸氏
                     └弘臣┬長安─兼安
                        ├永喜
                        └安藤