小夫氏
不詳
(藤原姓?)

 小夫氏は、東山内に割拠した国人衆の一人で、応永二十一年(1414)に足利義持が上洛を命じた大和国官務衆徒および国民のうちにも名が見え、城上郡小夫荘を本拠地としていた。東山内衆のなかでも比較的勢力が大きく、東の吐山氏と並んで都祁方面にも力をおよぼしていたことが知られる。ちなみに、小夫は「おおぶ」と読む。
 都祁来迎寺の檀越に連なっていたが、多田氏がはじめた染田天神講の連歌会には参加していなかった。同じく、都祁地域の南側に割拠する相川氏、芹井氏なども天神講衆ではないことから、地理的な意味合いが大きかったようだ。
 小夫氏の拠る小夫地域は都祁から国中へ通じる要衝の地で、小勢力である小夫氏は大勢力に翻弄されることが多かった。すなわち、中小国人の例にもれず、十市氏についたり、越智氏についたり去就は定まらず、そのたびに小夫は敵方に攻め込まれたのである。
 はじめ十市氏に従ったが、文明十三年(1481)、越智氏に味方した秋山氏に攻撃され落城、以後、越智氏に従った。その結果、国中の有力者筒井氏とは敵対関係になり、その姿勢は最期まで変わらなかった。明応七年(1498)、越智氏が没落するとこれを匿い、吉野に逃がした後に落城するという憂き目を味わった。
 やがて、永禄三年(1560)松永久秀が大和に入るとこれに従ったが、永禄八年(1565)、秋山氏と共に反乱。松永軍の攻撃を受けて落城した。こうして、小夫氏は最終的には、大和の戦乱のなかで没落の運命となった。

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【資料:天理市史/奈良県史=大和武士 ほか】

■参考略系図