姉川氏
鷹の羽
(藤原氏流菊池氏族)

 「葉隠校注」によると姉川氏は、肥後菊池氏の一族であり、菊池武光の姪で武安の後裔とある。
 菊池武光は、1360年の大保原の合戦の後、菊池武安に肥前の攻略を命じ、武安は少弐氏征伐の牙城として仁比山城に拠った。武安は、姉川、本告、松崎、横大路、菩提寺等に支城を築き、肥後菊池の後援を得て、高木、竜造寺、千葉、松浦党を次々に撃破したが、少弐頼尚によって仁比山城を攻められ、敗れた武安は支城の姉川に落ちて姉川氏の祖となったのである。
 姉川城は、正平15年頃に菊池武安によって築かれた。武安は、肥後菊池氏の一族で仁比山城を本城に姉川城、本告牟田城、横大路城等に支城を築いたが、少弐頼尚に敗れて以後は姉川城を居城として姉川氏を称した。姉川氏は、友安_惟安_信安_房安と続き、少弐氏・龍造寺氏に仕えた。

●姉川氏の軌跡を辿る

 1434年正月に姉川友安は横岳頼房の少弐家再興の呼びかけにより応じ、少弐譜代の一将に転じた。  1530年、中国地方の大内義隆が、筑前の守護代杉興連に命じ、勢福寺城の少弐資元・冬尚親子を攻めさせた。少弐資元は、佐賀・神埼の軍士に加え姉川惟安ら少弐譜代の十九将らで田手の縄手、野路宿の周辺で待ち構え、路宿の合戦において大内勢を敗走させた。
 1551年、陶隆房が大内義隆に謀反して大内家を没落させると、少弐譜代の姉川惟安を始めとする部将達は土橋栄益に同調して、大内氏と結んでいる龍造寺隆信の討伐を図り、隆信は佐嘉城を追われ、城を明渡して筑後へ落ちて行った。
 1553年、佐嘉城を奪回した龍造寺隆信は、少弐譜代の姉川惟安らを降し味方に引き入れて、土橋一味を討伐する案内者として立てた。以降、惟安は勢福寺城攻めなどに参陣して龍造寺に勝利を導いた。龍造寺氏は勢力を拡大し、豊後の大友氏と対立することになるが、1570年、大友宗麟が龍造寺隆信を攻めると、少弐譜代の姉川弾正思惟安は周辺の諸将と共には再び大友方に参陣して龍造寺に叛いた。しかし、大友氏が龍造寺に敗れると、再び龍造寺方に加担する。
 1572年に 隆信が朝日山(鳥栖市)の筑紫貞治を攻めて貞治が降ると、姉川信安はその論功行賞により姉川から米田(上峰町米多)に移り、横岳氏が持っていた知行百町が信安に与えられた。
 1584年島原の陣で隆信が没すると、龍造寺一門は鍋島直茂に起請文を提出するが、この神文の連名十一名に姉川信安が名前を連ねている。信安の子房安は鍋島直茂に従い朝鮮の役に出陣して活躍した。

●姉川氏の人物小伝→ 参考サイト

姉川惟安 あねかわこれやす ?〜?
少弐氏家臣。官途は中務大輔。肥前神崎郡姉川城主。1545年に龍造寺隆信と戦うが、1547年に主家が滅ぶと没落し、1555年に至り龍造寺氏に降る。1570年の今山合戦では大友氏につくが、大友軍が敗れると再び龍造寺氏に属し、東肥前攻略などに活躍。
姉川信秀 あねかわのぶひで ?〜?
龍造寺氏家臣。官途は兵庫助。神崎郡姉川城主姉川氏の一族。信安の弟または息子か。1581年の龍造寺鎮賢(政家)による肥後侵攻に参加し、1583年肥後玉名郡横島城に移り、太田家豊とともに同地方を守備した。
姉川信安 あねかわのぶやす ?〜?
龍造寺氏家臣。姉川惟安の男。官途は中務大輔。1572年に東肥前に進軍。その後肥前三根郡米田(めた)を知行して、土肥家実とともに防備に当たった。1581年の龍造寺鎮賢(政家)の肥後計略にも従軍。
●略系
姉川惟安肥前武安裔菊池武時流弾正中務
  信安惟安子兵庫中務信房?
房安信安子平右衛門
  信秀惟安子兵庫
尚重
道虎鍋島清虎子姉川生柵入道道泉鍋島生三「三生」「姉川鍋島家」
茂泰道虎子鍋島縫殿茂房
清良茂泰子

●ゆかりの旧蹟

姉川城
佐賀県神埼市神埼町姉川下分

姉川城の文書史料による初見は、延文5年(1360)であるが、この頃、菊池武安が築城したとされ、姉川氏はその末裔と称される。
佐渡神社
神埼町姉川に本拠を置き坊所郷を領した姉川氏が、正平4年(1349)に筑前箱崎宮の御分霊を祀ったことに始まる。

【資料: ほか】

■参考略系図