もっともっと画像

牧野氏のこと



●牧野氏の出自

 牧野氏が、この地を支配するのは、明応二(一四九三)年からである。牧野氏は中条郷牧野(現豊川市牧野町)より興る。明徳三年=元中九(一三九二)年、南北朝が統一されたにもかかわらず、三河国は、治まらず、応永年間(一三九四〜一四二八年)室町幕府四代将軍足利義持は、左大臣田内成清の後胤を称す田内左衛門尉成富を四国讃岐(香川県)から招び寄せたのをはじまりとすると伝える。成富は、中条郷牧野に館を構え、その子・成時は、本姓田内を改め牧野氏を名乗る。当時の三河国守護職は、一色氏である。一色氏は、幡豆郡一色郷(幡豆郡一色町)より興る足利氏の支族である。
 永享一〇(一四三八)年、上杉憲実に敗れた一色刑部小輔時家は、鎌倉から守護職を頼り三河に逃れる。翌永享一一(一四三九)年、宮島郷長山邑(和名類聚抄に載る宮島郷は、現在の豊川市下長山町、同牛久保町、同中条町、同古宿町、同金屋町、同三蔵子町あたりを指す。なお、宮島は、下長山熊野神社の弁天堂の祭神・市杵島姫に由来する。)に一色城(豊川市牛久保町岸組)を構える。翌永享一二(一四四〇)年、守護職一色義範は、幕府謀反の科で処刑される。守護職は、額田郡細川郷(岡崎市細川町)より興る足利氏の支族・細川成之に替わるが、一色氏に代り守護職となった細川成之は、応仁の乱(一四六七〜一四七七年)で東軍に加わり、没落する。
 三河国は、守護職不在の戦国乱世を迎える。応仁の乱が終わる文明九(一四七七)年、守護職を頼り鎌倉から逃れ一色城主となった一色時家の臣・波多野全慶は、時家を破り、一色城主となる。
 室町幕府四代将軍足利義持の要請により四国讃岐(香川県)から中条郷牧野に移った田内左衛門尉成富の子・牧野成時は、明応二(一四九三)年、牧野(豊川市牧野町)の西・一色城に近い瀬木(豊川市瀬木町)に城を築き、波多野氏を討つ機会を伺う。同年、成時は灰野ヶ原(御津町灰野とも一色城の東ともいわれる。)で波多野全慶を討ち、一色城に入城する。このときから牧野氏が、この地を支配するようになる。以上が、伝えられる牧野氏の略歴である。  牧野氏は、中条郷牧野に興り、牧野から瀬木(豊川市瀬木町)そして、一色城に入城している。牧野氏は、徐々に拠点を南に移している。
 牧野氏が、興った中条郷牧野の北一?程の所に麻生田大橋遺跡(豊川市麻生田町大橋)がある。麻生田大橋遺跡は、広さ一万平米に及ぶ縄文晩期(BC一〇〇〇年)から中世に掛けての複合遺跡である。縄文時代から弥生時代に移っても墓域に変更がないことなどから縄文時代から中世まで麻生田大橋遺跡に住民の交替はなかったと思われる。
 この麻生田大橋遺跡に暮した人々が、そこから南下し、中条郷牧野に至り、その裔が、牧野氏になったと可能性は十分にあったと思われるのである。なお、段丘崖上には、天平神護年間に至っても縄文の流れを汲む神を崇める若宮殿の氏子が居住していた。そして、牧野氏は、蝦夷の神を祀る若宮殿を氏神として崇敬しているのである。

●牛久保の地名の由来譚と牧野氏

 後に長岡藩、笠間藩などの藩主となる牧野氏の故地・牛久保は、牧野氏が、この地を支配する以前は、トコサブ(表記は、常寒・常荒・常左府)と呼ばれていた。牛久保の沿革等について記載する「牛窪密談記」は、牛久保の地名由来譚を以下のように記載する。
 明応二(一四九三)年、牧野成時(古白)は、瀬木城(豊川市瀬木町)から供をつれ、はじめて一色城(豊川市牛久保町岸組)に入城する。途中、天王の御手洗金色清水(豊川市中条町大道)の窪溜に野飼の牛が寝そべっていた。往来の人々はこれを避けて通っていたが、成時(古白)一行が通り掛かると件の牛は、起き興がり、道を開けた。供の石黒九郎兵衛は、これは吉兆だ。諺にいうように「牛、起き興さい給うは、必ず国主に成り給う。」といった。成時(古白)が稲場に上っていくとそこには牛頭天王の社(豊川市中条町大道)があった。成時(古白)は、この社の加護であると満足気であった。一色城に入城した成時(古白)は、牛頭山大聖寺(豊川市牛久保町岸組)の社僧を招び金色清水の窪溜に牛が居たことに因み里名を常寒から牛窪に改めるといった。そして、成時(古白)の次男の成勝が享禄二(一五二九)年、新たに牛久保城(豊川市牛久保町城跡)を築いたときに牛窪を万葉書の牛久保に改めた。これは、一色城入城等の牧野氏吉兆の年が、丑年であることに因むものとされる。
 「牛窪密談紀」は、元禄一〇(一六九七)年頃成立した「牛窪記」を牛久保の人・中神善九郎行忠(生年不詳〜一七一一)が加筆訂正したものである。「牛窪密談記」が、記す一色城は、JR飯田線牛久保駅の東北、五〇〇?ほどのところの段丘崖上の牛頭山大聖寺付近にあった。
 また、野飼の牛が寝そべっていた窪溜のある金色清水を御手洗とする牛頭天王の社は、牛久保八幡社の境外末社・天王社をいい、当時一色城の東にあり、神仏混合の時代は、牛頭山大聖寺の僧侶が、神職を兼ね、稲場天王社と呼ばれていた。明治一〇(一八七七)年、牛久保八幡社境内に遷座され、昭和二四(一九四九)年、現在の豊川市千歳通四丁目の地に遷座された。  「牛窪密談記」は、牛窪(牛久保)の地名の由来を牧野氏が一色城に入城したとき、窪地に寝そべっていた牛が起興ったことを吉兆としたことに求めている。両書とも牛窪(牛久保)の地名は、牧野氏が、人為的につけたものとしている。
 牛窪(牛久保)と同様に、人為的につけられた地名に岐阜がある。岐阜の地名は、戦国時代の武将・織田信長(一五三四〜一五八二)によりつけられた。織田信長は、永禄一〇(一五六七)年、美濃国稲葉山城から斎藤龍興を追放した。稲葉山城から斎藤龍興を追放した信長は、それまでの稲葉山城から城の名を岐阜城と改名するとともに、その城下町・井の口も岐阜と改名した。この改名は、支配者が、交替したことを世間に知らしめるためといわれる。
 岐阜の名は、臨済宗妙心寺派の禅僧・沢彦宗恩が信長に命ぜられ、中国の周王朝の文王が岐山から兵を興し天下を統一したとの故事に倣ったものである。岐阜の「阜」は、丘の意味があり、岐山と岐阜は同様の意味になるからである。しかし、この改名は、岐山の故事に倣ったものではなく、元々あった小地名・岐阜を選択したにすぎないとする説がある。濃尾平野を流れる木曽川は、岐阜辺りで岐蘇川と呼ばれ、岐蘇川に因み岐阜の地名があったとするのである。しかし、岐阜改名の理由が、支配者の交替を世間に知らしめるためであったこと、また、信長が、この頃から天下布武の印文を使用していること等から仮に岐阜の地名があったにせよ岐山の故事が大きな影響を与えたと考えるのが妥当である。
 牧野氏が、常寒(常荒)の地を牛窪(牛久保)と改名したのも信長と同様、支配者が交替したことを知らしめるために行われたのであろうか。  「牛窪密談記」が、記すように牧野成時が波多野全慶を灰野ヶ原に破り、一色城(豊川市牛久保町岸組)に入城する明応二(一四九三)年に行われたとすれば、支配者の交替を世間に知らしめるためとみることができる。「牛、起き興さい給うは、必ず国主に成り給う。」も岐山の故事と共通するものがある。しかし、日本史の革命児・信長でさえ元々あった小地名を選択したとする説がある。牛窪の名がまったく独自のものであるとは思われない。東三河の一地方を支配したにすぎない牧野氏が信長のような明確な方針を持っていたか否かは疑問がある。
 牛窪の地名が、元々あったとすれば、「金色清水の窪溜に牛が寝そべっていた」との故事も後の牽強付会ということになる。

●穂国幻史考の記事を、管理人-穂国宮島郷常左府住・柴田晴廣さまの許諾を得て、転載させていただきました。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/