横山氏
丸の内万字
(武蔵七党横山党) |
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武蔵七党のひとつ横山党は小野篁の後裔という。義孝のとき武蔵国南多摩郡横山を本拠として、横山を称した。
戦国末期、後裔にあたる将監時隆は美濃国に住した。その子が長隆で同国に生まれて、美濃国清水城主稲場氏に仕え、のち越前大野城主金森氏を経て、天正10年(1582)越前府中で前田利家に仕えた。旗奉行を務め近江柳ケ瀬の陣に出陣、そのときに受けた傷がもとで天正11年没した。
家督を継いだのは長知で、天正10年父とともに越前府中で前田利家・利長に仕えた。所々の合戦に武功をあらわし、三万石を知行する。加賀藩の初期において、豪商と結んで藩財政の確立に務めた。利家没後、二代藩主前田利長に対する徳川家康の誤解を解く使者となり、加賀百万石安泰の基礎を築いた。のち加賀藩の大老となり、正保三年に没した。
長知のあとは嫡子康玄が継ぎ、大坂の陣で功をあげる。その室はキリシタン大名で有名な高山右近の娘で、岳父右近から茶道などを学んだという。横山氏は加賀藩老臣八家のひとつに数えられ、江戸時代を通じて大老あるいは家老を務めて加賀藩政に重きをなした。次男の興知は徳川幕府に仕えて五千石を知行する旗本家として続いた。
家紋は宗家が丸内万字で、庶流は三つ巴内万字・角内万字などを使用したことが「諸士系譜・先祖由緒」などから知ることができる。ちなみに旗本横山家は、黒餅に右萬字、重二萬字を用いた。
■参考略系図
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